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7. 繋がる線

「へ?」
マグカップに唇を近付けた状態で、美冬が気の抜けた声を出した。
困惑した視線は、自分の向かい側に座ったワーズワースに向けられている。
夕暮れの時刻、駅近くのコーヒーチェーン店。
窓の外の忙しない人波とは裏腹に、店内はのんびりとした雰囲気だ。
低く流れている音楽は客の談笑の声に飲み込まれている。
「だから、レイヴンとケンカでもしたのかって聞いているんだ」
「どうして?」
「どうしてって、お前に呼び出される事なんて稀だからな。仕事で不満があるなら
直接ギルドに乗り込んでくるか、電話で怒鳴っているだろう。それ以外と言うと、
このくらいしか思い当たるフシがない」
溜息混じりに言葉が吐き出される。
何気ない風を装って、ワーズワースは探る視線を投げた。
「少し前にレイヴンの機嫌が悪かったから、そうじゃないかと思ったんだ。アイツが
怒る原因なんて、お前絡みのネタくらいだろうし」
美冬が大きく目を瞬かせ、静止する。
一瞥した視線と見つめる視線がぶつかった。
「すごい! 伊達に『ギルドは俺で持っている』とか大風呂敷広げてないね、ワーズワース!」
「実際そうなんだよ。まあ、男女間の問題に精通している俺にかかれば……」
「かすってもいないけど」
「って、違うのか。心配して損した」
私立高校の制服を着ている美冬が感心しきった表情を浮かべた後、楽しげに笑う。
しかし、ややあって真顔に戻った。
香ばしい芳香を放つ空間の中で首を傾げた仕草のまま、遠くに視線を投げる。
視線の先、窓の外には横断歩道を渡る無数の人々の姿があった。
「そういうのじゃないんだ。何かあったワケじゃないの」
「ふうん?」
「何かあったワケじゃないんだけど……なーんか、仕事行きたくないなぁって」
「疲れているのか」
不意に声の調子が変わる。
ソファにもたれたワーズワースは袖のカフスをいじりながら、目の前の少女を見つめた。
周囲から聞こえる話し声や笑い声とはかけ離れた雰囲気。
空気は重みを増し、黙りがちになる。
低く流れた音楽が二人の間をすり抜けていった。
「うーん、どうだろ。それもあるのかもしれないけど」
美冬の視線が落ち着きなく動いているのは、言葉を選んでいるせいらしい。
何か言いたげにワーズワースに目を向けては口ごもる。
プリーツスカートのひだを指先でしごきながら、黙りこくった。
そして。

「最近、居心地が悪くてさ」
呟くように言った。
向かい合って座った二人は静止する。
一方は言葉の意味を問うように見つめ、また一方は不安げな視線を向けていた。
「居心地が悪い?」
「うん。比良坂がね、ちょっと」
「……具体的には?」
比良坂と言う単語が出てきた瞬間、ワーズワーズが眉間にしわを寄せ。
わずかに返答が遅れる。
表面上は平静を装っていたが、彼の心中には不安に似た感情が生まれていた。
あの異様に仲がいい死神どもに一体何が――そう思いながら、
脳裏にはいくつもの推測が浮かぶ。
「最近、みんなと距離を感じるんだよね。妙によそよそしいって言えばいいのかな。
カヤの外っていうか、隠し事してるっぽいっていうか」
言葉が途切れ、溜息が聞こえた。
「あたしや真雪がいない所でケンカでもしたのかなぁって思ったんだけど、
そうじゃないって言ってたし」
オレンジ色の白熱灯に照らされ、置き去りにされたコーヒーがテーブルに影を落とす。
隣のテーブルとは30センチほどしか離れていないはずであるのに、
他の会話は聞こえなくなっていた。
頬を暖かい風が撫でていく。
「しかも、うーちゃん……ウォークライが1週間以上休んでるのに何も言わないんだよ?
誰に聞いても曖昧な返事しか返ってこないの。もともと居なかった感じになってるしさ」
「体調を崩してるんじゃないのか」
「理由が言えないにしても『しばらく休みます』って話はあるじゃん、普通。
うーちゃんと連絡はつくし、入院してるワケではなさそうけど」
窓の外からオレンジ色の光が差し込んでいた。
ワーズワースが瞳を細めたのは眩しさのせいか、それとも。
足をぶらつかせる美冬に視線を向け、片眉を上げてみせる。
「ウォークライは、なんて?」
「『すまない』とか『大丈夫』とか、そればっか。理由も話せないほど頼りないかなぁ」
「言えない事情があるんだろう」
「真雪と同じ事言うのね、ワーズワースも」
不満そうな溜息が漏れた。
視線が天井を仰ぎ、唇を尖らせる仕草。
その顔は何かを思案している風でもある。
「それにしても、最近やたらゴタゴタしてて落ち着かないや。相変わらず
変な奴等には絡まれるしさ」
「変な奴等?」
「そう。知らない奴に尾行されたり、明らかに此岸の人間っぽいのに
馴れ馴れしくされたりするんだよね、ちょっと前から。いい加減慣れてきちゃった」
話題を変えるように、窓際の席で外を眺めながら呟いていた美冬の動きが止まった。
視線を感じて顔を正面に向けると、ワーズワースが眉間にしわを寄せて固まっている。
まるで睨むような眼光の強さ。
言葉が途切れ、見つめ合った。
「え? あ、あの。ワーズワース?」
戸惑い気味に目を瞬かせながら、恐る恐る名を呼ぶが返事はない。
ワーズワースはマグカップを唇から離すと、強く唇を噛んだ。
「あ、大きいトラブルにはなってないから大丈夫だって! ギルドが出るほどの……」
「そういう問題じゃない」
胸の前で慌てて手を振ってみせる美冬の言葉を、強い調子で遮った。
言葉の端々や溜息に怒気が混じる。
机に置かれた拍子にマグカップが大きな音を立てた。
「いいか」
頭を抱える格好で乱暴に髪を掻きながら、ワーズワースが瞳だけを動かして前方を睨む。
「普通にチェイサーやってたら、そんな目には遭わないんだよ。バケモノを倒すだけの仕事で、
知らない人間に尾行されたり、付き纏われたりする事自体おかしいだろ」
「確かに、そうだけど」
「前も言ったが、相変わらずお前やレイヴンに関する問い合わせが多い。それに、
先々週くらいに比良坂の姉御が物凄い剣幕で電話してきたぞ。
『ラプターとレイヴンがエクスに絡まれてる。どういう事だ』ってな」
あたりに溢れる話し声や笑い声は二人には届いていなかった。
息をするのも躊躇いがちになる濃い沈黙が漂う。
険しい表情で黙り込む二人は、賑やかな店内でも異質な空気を放っていた。
「エクスキューショナーに目をつけられてるだけなら、少々派手に動きすぎたのかとも思うがな。
あのアブソルートに狙われるなんてよっぽどだぞ。これでも、なんでもないって言うか?」
「……」
「まだ、ギルドの出る幕じゃないと言うか?」
畳み掛ける言葉に気圧されそうになる。
ひざの上で強く握られたワーズワースの手は、意志の強さを表しているようだった。
怒気の混じる視線から逃れようとする。
「もう一度聞く。お前は何に首を突っ込んでる? こうなった原因は何だ?」

数秒間、ただ見つめ合うだけの時間だけが過ぎていく。
隣り合ったテーブルから遠慮がちに伺う視線が投げかけられているが、二人は
それを気にする素振りも見せず。
答えを待ち、言葉を探しながら黙り込んでいた。
ガラス越しに聞こえてくる無数の靴音と頭上から降り注ぐ音楽が溶け合う中で。
「……分かったよ。話せばいいんでしょ、話せば」
最初に目をそらしたのは美冬だった。
疲れた様子で大きく息をつくと、椅子の背もたれに身体を預ける。
「大事にしたくないから黙ってようと思ったのに」
「充分大事だ。何かあってからでは遅いというのが分からないのか」
「どうせ信じてもらえないし」
「話さない事には分からないだろう」
不貞腐れた表情で呟く声にワーズワースが呆れ気味に眉をしかめてみせる。
美冬は自分の爪に視線を落としながら、目の前に座る彼を一瞥した。
そして、ややあって。
決意したように座りなおすと表情を引き締める。
視線だけで辺りを見渡した。
「あたしは」
躊躇いがちに切り出す。
「真雪の見てるモノが見えるの」
ワーズワースをまっすぐ見て言い放った。
言葉の意味を捕らえ損ね、唖然と困惑を混ぜた表情を浮かべる彼から
視線をそらせようとはしない。
音は消えていた。
「どこにいて、何をしてるかも分かる。どんな事を考えてて、どんな気持ちなのかも。
それはアイツも同じ。あたしの事が自分の事みたいに分かるんだ」
「……どういう、意味だ?」
「言葉のままだよ。もっと分かりやすく言えば――」
 
「あたし達はエニグマ、十三番目の死神って呼ばれる生き物。二人で一つなの」

ワーズワースの動きが止まった。
呼吸をするのも忘れ、目を見開いたままで硬直する。
唾を飲み込むのが見えた。
言葉を頭の中で繰り返しているのか、美冬に釘付けだった視線が落ち着きなく動いている。
口もとを手で隠す仕草。
そんなワーズワースの様子を眺めている美冬は微動だにしなかった。
感情のない瞳で眺める。
どこからか踊り込んできた風が二人の間を通り過ぎていった。
「エニグマ……」
ワーズワースの口から単語が滑り落ちる。
眉間にシワを深く刻んだまま、テーブルの上に放置されたマグカップを睨んでいた。
なにか言いたげに美冬を一瞥するものの、言葉は伴わず。
ただ沈黙だけが二人の間を通り過ぎる。
周囲の雑音は消えていた。
「いや、まさか。嘘だろ?」
「ほら、やっぱり信じないんじゃん。誤魔化したいんだったら、もっとマシな事言うよ」
「そうかもしれないが。でも、本当にエニグマなのか?」
「だーかーら! そんなに信用できないんだったら真雪にも聞いてみなって。
別にいいけどさ、嘘だと思われてても」
恐る恐る繰り出された問いに、美冬が不満そうな表情を浮かべる。
半信半疑の様子の男を軽く睨んでみせた。
しかしぼやく口調と共に、視線は髪をいじる指先へと落ちる。
一瞬の間。
気を取り直すようにワーズワースが座り直した。
「悪い、気分を悪くしたなら謝る。すぐに信じられるような話じゃなくてな」
「うん、分かるけど」
どちらからともなく黙る。
見ている方向はそれぞれ違うものの、二人はなにかを考えている様子だった。
窓の外は夕暮れの景色。
ビルの壁面がオレンジ色に染められ、帰宅ラッシュの人波も数を増している。
相変わらず混雑する店内の音楽や話し声に混じり、窓越しに無数の靴音が聞こえた。

「なるほど」
数分後、静寂を破ったのはワーズワースの呟き。
苦い表情でコーヒーを口に含みつつ、小さく息をつく。
美冬は彼を見た。
「エニグマだと言われれば、納得できる事が多いのも確かだ」
「へ?」
「辻褄が合うって事だよ」
大きく目を瞬かせながら首を傾げる美冬に、眼鏡の奥の瞳が苦笑する。
足を組むと、ソファの革が小さく鳴いた。
「アブソルートに狙われてるのも、お前達の事をやたら聞かれるのも、前々から
比良坂の連中が変な動きをしていたのも、そういう事だと仮定すると全部辻褄が合う」
「エニグマだから?」
「そう。ごく普通のチェイサーがここまで狙われるなんて、どんな理由があるのだろうと
思っていた。確かにエニグマは、よっぽどの理由だな。単なる興味もあるだろうが、
腹に一物抱えてる奴等にとっては魅力的な魔法の杖だろう」
片眉を上げて、不敵な笑みを浮かべるワーズワース。
美冬を一瞥すると、すぐに視線は窓の外に移される。
その横顔はなにかを思案している風にも見えた。
「……ねえ」
「ん?」
「ワーズワースはエニグマの事、どのくらい知ってる?」
わずかに言いよどんだ美冬が、どこか意を決したように切り出す。
一瞬の間。
「エニグマの事、魔法の杖って言ったよね。どういう意味? 皆が騒ぐ割に、あたし
何も知らなくてさ。知ってる事、些細な事でもいいから教えて欲しいんだけど」
「どのくらいって、一般的な知識程度だぞ。都市伝説だの、特殊な力だとか。
そういう事ならギムレットとか、比良坂の所長の方が詳しいんじゃないか?」
「所長は誤魔化すんだもん。ギムレットさんも……あー、思い出した!」
「馬鹿、デカイ声を出すな。今度は何だよ」
突然の大声に、ワーズワースが小声でたしなめた。
警戒した様子で辺りを見渡すが、周囲は誰一人として二人を気にしている者はいない。
外の喧騒など他人事の、穏やかな雰囲気。
その中で美冬は、目の前の男の肩を掴みかかりそうな勢いで顔を近づけた。
「ねえ、調べて欲しい事があるんだけど!」
「顔が近い。少し落ち着け、ラプター」
「いいから聞いてよ。ギルドなら此岸の人間の事は分かるよね?」
テーブルに手をつき、半ば睨みながらすごむ。
それに対し、圧倒されてマグカップを持ったままのけぞる姿。
逃れようとする視線が宙を漂った。
「それなりに分かる事は分かるが、外部に情報を漏らすのは……」
「調べて欲しい人がいるの! 甘いパン買ってあげるから!」
「甘いパンを交渉道具にするな。あのな、そう簡単に個人情報を話す訳にはいかないんだよ。
お前の一生のお願いはチャリオットの件と、コロッケ食べ放題の件で使用済みだろ」
「知らない、忘れた! ねえ、お願いだから調べてよ。お礼するから!」
顔の前で両手を合わせるが、ワーズワースは手で払う動作をする。
顔をそむけると、足を組んで大きく溜息。
『聞く耳を持たない』とアピールしているようだった。
「いつも緊急の仕事とか引き受けてるじゃんかぁ。ねーってば!」
「うるさい。それはそれ、これはこれだ」
「もー、だから! 今、巻き込まれてるゴタゴタの関係者っぽいんだって!
あたし達に絡んでくる変な奴等がいるのよ。なんでもいいから、そいつらの事が知りたいの」
一気にまくし立てた美冬と、ワーズワースが険しい表情で見つめ合う。
会話が止まり、静止した。
何事かと観察する複数の目の中で、二人は固まったまま。
探る視線と訴える視線。
空白の時間が流れる。
そして。

「教えられるのは基本的なデータのみ。それ以上の事は探偵でも雇え」
大きな溜息の後、ワーズワースがぶっきらぼうに言い放つ。
開けた襟元をいじりながら諦めた表情を浮かべた。
「え?」
「ギルドとしてではなく、俺個人で引き受けてやるよ。名前か特徴を言ってみろ」
「いやーん、ワーズワース素敵ー! さすがギルドをしょって立つ男!」
「俺、最近こんなのばっかりだ。情報屋じゃないのに」
腰を浮かせていた状態から椅子に座りなおすと、美冬は嬉しそうに足をバタつかせた。
脱力した手を取ると、上下に大きく振りながら握手する。
チャコール色のジャケットの腕が人形のような動きをしていた。
「あ、調べて欲しいのはね」
「言っておくが、3人までだからな。それ以上は調べないぞ」
「ええー? まあ、でもいいか。頼みたいのはトリプルシックス、ヒルデマール、
ブルーバードのこと。トリプルシックスはミロクって呼ばれる事もあるみたい。
で、ヒルデマールっていうのが……」

「なんだ。また、その名前か」

固まる。
言いかけた言葉は、胸元から取り出した手帳に視線を落としながら放たれた言葉に遮られた。
当のワーズワースは、怪訝そうな美冬など気にせずに頭をボールペンで掻いている。
「『また』?」
「ああ、数日前にも同じような事を頼まれたんだ。その時は、ブルーバードって奴は
入っていなかったが」
「それ、誰が言ってたの?」
「ノクティルカだよ。アイツ、最近妙に……」
不意に、上の空で答えていた声が止まった。
何かに気付いたのか、慌てた様子で顔を上げると眉間にしわを寄せる。
唇がわずかに動き、渋い表情を浮かべる。
軽い驚きを顔に広げたままの美冬の様子を窺いながら。
わざとらしい咳払いをした後、姿勢を正した。
「ノクティルカさんがそんな事言ってたの?」
「いや、違う。間違えた」
「え? だって、さっきノクティルカさんがって言ってたじゃん」
「よく考えてみたら別人だった。あれはノクティルカに似たサド眼鏡だ」
首を傾げる美冬と、視線を合わせようとしないワーズワース。
戸惑い気味の問いを突き放すように言い切る。
何事かを言おうとした美冬の声を、手帳を閉じる音が邪魔をした。
「ねえ、ワーズワース。さっきのどういう意味?」
「さあな。それよりもだ、ラプター」
「あ、ごまかそうとしてる!」
「そうじゃなくて。いいから聞け」
眼鏡越しの目が睨む。
美冬は視線の強さに黙るが、表情は不満げなままだった。
唇を尖らせて体を前後に揺らし続けている。
だが、目の前の彼が真剣だという事が分かるとすぐに真顔になった。
ワーズワースは軽く息をつくと、まっすぐに美冬を見つめる。
なにかを言おうとし、飲み込んだ。
それを幾度か繰り返し。
「お前、本当に無茶するんじゃないぞ」
念の押すように発せられた声。
茶化す事も受け流す事も出来ない空気を作っているのは、彼の眼差しだった。
美冬は言葉もなく、まっすぐに見つめてくる瞳を見返す。
「お前がエニグマであったとしても何も変わらないし、態度を変えたりしない。
これから、思い通りにいかない事もあるだろう。何もかも違って見えるかもしれない。
でも、俺が味方である事は間違いないから」
ドアが開閉される度に忍び込んでくる冷気が、暖房の風と混じり合いながら通り過ぎた。
間近に聞こえた靴音共に、隣の席に座ろうとする人影が視界の端に写るが
二人は気にする様子もなく。
身動き一つせず、向かい合って座っていた。
取り残されたマグカップが、テーブルの上に影を落とす。
「それだけは覚えててくれ」
ワーズワースは軽く息をつくと、小さく頷いてみせた。
どちらからともなく笑う。

「……しかし、エニグマねぇ」
「信じてないでしょ?」
「正直、半信半疑ってところだな。だって、巷で言うところの口裂け女とか
ターボばあちゃんレベルの話だぞ? そう簡単に信じられるか」
「ターボばあちゃんと一緒にすんな」
ややあって声のトーンが変わった。
笑いを含んだやり取りに、重かった空気が消えていくのが分かる。
ふてくされた調子の美冬と、笑いを堪えるワーズワース。
机の下では靴底を小突く感触があった。
「でも、お前やレイヴンを見ていると『そんな事もあるかもしれない』と思うし、
大事なのはそこじゃないだろうとも思う」
「へ? 大事なのはそこじゃない?」
「まあ、気が向いたら話すよ」
向けられた言葉の意味を捉えそこね、軽く眉を寄せたままで動きを止める。
脳裏で考えを巡らせているらしく視線が虚空を彷徨っていた。
首が傾いでいくのに合わせて肩に垂れた髪が滑り落ちる。
「どういう意味? 大事なのはそこじゃないって何?」
「さあ? たまには自分で考えてみろよ。頭使わないと、脳みそに蜘蛛の巣張るからな」
「うーわ! もったいぶりやがって、このクソ眼鏡が! いいじゃ……」
肘掛けに腕を置いた状態で薄笑いを浮かべるワーズワースに、美冬が食いつく。
半笑いの怒気が混じる声を飲み込んだのは制服のポケットから流れる短い旋律。
思わず動きが止まり、二人の視線が音の発生源に注がれた。
「ごめん、あたしのメールみたい」
「レイヴンじゃないのか? 寂しくなってメールでもしてきたんだろう。
アイツ、二言目には『ラプターが』だからな」
「またまたぁ。それはないでしょ、子供じゃあるまいし」
「でも、もういい時間か。そっちも今日は仕事なんだろ? そろそろ事務所に
向かった方がいいんじゃないのか」
体をひねり、背面の壁に掛けられた時計を眺めているワーズワースをよそに
美冬は携帯電話を取り出すと、画面に視線を落とす。
初めは笑み混じりだった表情が次第にこわばっていった。
唇を噛み、黙考するように。
顔を上げるものの、すぐに俯いて携帯電話のディスプレイを凝視する。
流れ落ちた髪が表情を隠し、感情を読む事は出来なかった。
美冬の様子に気付いたワーズワースの問いかけも聞こえない様子で、微動だにしない。

「メール、うーちゃんからだった」
数十秒後。
沈黙を破ったのは、店内の音にかき消されそうなほどの小さな声だった。
顔を上げ、不安げな瞳をワーズワースに向ける。
落ち着きなく視線が彷徨っていた。
「どうかしたのか?」
「分からない。分からないけど、何かあったみたい。嫌な予感がする」
力なく首を横に振ると再び俯く。
怪訝そうな表情で、次の言葉を待つワーズワースの前に突きつけられた携帯電話。
そこに表示されていたのは――
 
 
『これ以上、迷惑をかけられない。俺は比良坂を出て行く』
 
 
窓の外に夕暮れの気配は消え、東から夜が始まっていた。
街には先ほどよりも多くの明かりが灯る。
それを遮るように行き交う、モノクロの人の波。
二人は長い時間、押し黙ったままだった。

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