home > 小説 > > 6-2 目覚めよと呼ぶ声あり

6-2 目覚めよと呼ぶ声あり

美冬の指先は震え、瞬きを忘れた目が落ち着きなく動く。
唇が微かに動いているのは、間近で発せられた言葉を繰り返しているからなのだろうか。
自分に注がれる二つの視線に気付いていないらしい。
俯いたまま、顔を上げようとしなかった。
「……間違っていた……」
「そいつの言葉を真に受けるな、美冬」
「殺しちゃいけない人を殺した。倒すべきだったのは別の人。あたしは間違って……」
「美冬!」
うわ言のように同じ言葉を呟く。
背後から投げられた真雪の怒声に近い呼びかけも聞こえない様子で。
「残念だっただろうなぁ。死んで生き返るなんて真似までしたのに、
あのオジさんが望んだ事は何一つ叶わなかったなんてさ」
ビルとビルの谷間。
ネオンに彩られた周囲の景色とは裏腹に、ここは取り残された外灯が一つきりの
薄暗い場所だった。
人通りはなく、佇む影は3つ。
微動だにせず、睨み合う静寂が続く。
「犬死って言うんでしょ、こういうの」
ヒルデマールは片眉を上げて、前傾姿勢で美冬の顔を覗き込んだ。
顔には、からかいの色が浮かぶ。
口の端を歪めるようにして笑った。

真雪は美冬の肩を掴み、なだめたい衝動を必死に抑える。
そんな真似をしたら隙が出来、相手がどんな動きをするか分からない。
舌打ちして奥歯を噛み締めた。
この訳知り顔の少年に翻弄されている。
言われっぱなしは性に合わないが、こんな街中で戦闘するわけにもいかない――
真雪は心の中でそう呟く。
いや、そもそも彼の目的と正体を見極めるのが先か。
冷静を装いつつも、内側は苛立ちに支配されていた。
 
「それに……」
「いい加減にしろよ」
靴音と怒気混じりの声がヒルデマールの声を遮る。
真雪は美冬の隣に並ぶと目の前の嘲笑する顔を睨んだ。
小刻みに震える美冬の指先を包む手。
ヒルデマールは自分に向けられた視線の強さに笑みを引っ込め、
それまで掴んでいた美冬の手を放した。
読もうとするかのように睨み合う。
「そうやって人の傷をえぐって何が楽しい? ケンカ売ってんなら残らず買うぞ」
「やだな、マジにならないでよ。ちょっとからかっただけじゃないか」
「余計にタチがワリィよ、クソガキ。お前、何が目的だ?」
押し殺した声で尋ねるが、返ってくるのは薄笑いだけだった。
不意に訪れた無言。
対峙する時間が続く。
遊ぶように風がすり抜けていった。
乾いた風は氷のように冷たく、触れた部分が痺れに似た感覚を覚える。
「それにしてもさ」
わずかな間の後、ヒルデマールは声を出さずに笑った。
場違いなほど明るい調子。
手を背後で組んだまま大きく一歩後ろへ跳ねる。
「あのオジさんって、ブルーバードを本気で助けようとしてたらしいね。
あの子を外に出してどうするつもりだったんだろ? まともに外に出た事もないし、
自分が監禁されてるって事すら分かってないのに」
ヒルデマールの背中越しに光の洪水が見えた。
繁華街は夜になってもなお人通りが多いらしく、無数の靴音と話し声が
ざわめきのように聞こえてくる。
ここは別世界だ。
息をするのも躊躇う重い静寂の中にいると、それらがひどく他人事に思えた。
「しかも、40のオジさんが12歳に片思いしてたとか笑っちゃうよね!
すっごい気持ち悪いんだけど。えーと、なんて言うんだっけ? ロリコン?」
「……うな」
「犯罪者じゃん、普通に。『人に与えられる、当たり前の幸せを』なんて
偉そうな事言ってたけど、結局下心だろって……」

「笑うな!」

それまで俯いていた美冬が、突然怒鳴った。
一瞬、ヒルデマールが唖然とした表情を浮かべる。
辺りの空気が張り詰めていく。
何かを言いかけた美冬の唇が数度わなないた。
だが眼光だけは鋭く、そこには明確な敵意がある。
「アンタに何が分かるの!? そうやって人の気持ちを笑ったり、否定する資格なんて
誰にもないんだ! 一生懸命やってる人間を馬鹿にするなんて、アンタ最低だわ!」
「綺麗事なんて聞きたくないね。僕がなんて思うと勝手だろ」
「それでも、あの人を馬鹿にされたら腹が立つって言うのよ!」
「あのオジさんは、そんなんじゃないって? 死んだら聖人化されちゃうパターンか。
美化されがちなんだよねぇ、死んだ人って」
感情をあらわにする美冬を、ヒルデマールは楽しげに眺めていた。
腕を組んだ姿勢で苦笑を漏らす。
風でコートの裾がひるがえるのが見えた。
「だけどさ」
今まで薄い笑みを浮かべていたヒルデマールから表情が消える。
瞬きをしない瞳の奥に見えた殺意に似た何か。
ゆっくりと美冬に近付くと、間近で覗き込む。
「君に何が分かるって言うんだ。その『一生懸命やってる人間』を殺したのは誰?
そんな人に、そんな事を言う権利があると思う?」

刹那。

ヒルデマールが口元を大きく歪めて笑うと同時に、美冬が真雪の手を振りほどいた。
地面に落ちていたショートソードが、彼女の手に吸い込まれる錯覚。
闇の中できらめく銀色の光。
風に混じって、空気を切り裂く音がする。
薄暗い空間。
弧を描いて繰り出された一撃に、真雪は咄嗟に後ろへ跳び
ヒルデマールは――

「もっとだよ、エニグマ」
鼻先数センチの所に刀身を突きつけられたまま、憑かれた笑みを見せる。
肩を揺らし、喉を鳴らしながら笑った。
「もっと怒ってよ。僕は、君達の本性が見たいんだ」
「……これは警告。次は本気でアンタを斬る」
「無理だね。君はまだ迷ってるんだろ? 口じゃ威勢のいい事を言ってても、
本当は人をヤる事を躊躇ってる」
ヒルデマールにショートソードを突きつけた美冬は、
見えない力に抑えられているかのように固まったままで。
呼吸を殺して平静を保とうとするが、手は小刻みに震えていた。
それは恐れか、それとも怒りか。
「はじめて人を殺した時は、皆そうだよ。何度も思い出して夢を見る。
だけど、それは今だけだ。そのうち何も感じなくなるから」
「あたしは違う」
「自分は汚れてないって言いたいの? でも、君の手は血で真っ赤だよ。
もう普通には戻れないんだ。人を殺さずにはいられなくなる、僕やチャリオットみたいに」
「黙れ!」
怒声と同時に繰り出された攻撃。
勢いよくショートソードを振り上げたものの、それは宙をかすめる。
踊るように避ける影を捉えようと攻撃を重ねるが、捉えるのは残像のみ。
「あたしは死神にはならない! これ以上、誰も殺さない!」
「願望と現実は違うよ。現に君は死神じゃないか」
「違う! あたしは死神じゃない!」
吠える声と笑いを含んだ声が交互に響いた。
間合いを作るように横に大きく薙いだ後、反動を利用しながら袈裟懸けにする。
人がすれ違うのがやっとの道幅であるはずなのに、美冬の攻撃はことごとく当たらなかった。
紙一重の所で、薄笑いを浮かべながら避けるヒルデマール。
食って掛かる美冬とは裏腹に、彼はそんな彼女を観察する余裕さえある。
「エニグマなんか知らない! お前に何が分かる!?」
漆黒の中で、翡翠色の髪が鮮やかに浮かぶ。
一発目の攻撃はフェイント、2発目は――
右手が握った美冬のショートソードが死角から飛び出してきた。
切っ先がヒルデマールを狙う。
しかし。

「だから言ったじゃないか、『君に僕は獲れない』って。こんな中途半端な状態じゃ無理だよ」
束を握る美冬の拳に腕を当てて防ぎながら、半笑いの声が言った。
震えるほど力がこめられているのにもかかわらず、平然としているヒルデマール。
額同士が、あと十数センチで触れそうだという位置で嘲る。
「今の君には興味はない。僕が会いたいのはエニグマなんだ」
「ふ、ざけんな!」
「起きてよ、エニグマ。僕、その為だったら何だって……」
不意に言葉が途切れる。
ヒルデマールの顔から笑みは消え、深く眉間にシワが刻まれた。
何かを捉えた瞳。
全てが静止する。

漆黒の中に、光が見えた。
距離にして数メートル。
唸る音、不自然な風の流れ、闇の中に浮かぶ球状の光。
睨む青年の顔、その瞳には金色がはらむ。
 
美冬の肩越しに何かを見つけたらしいヒルデマールが、押し返すようにして彼女から離れる。
腰をわずかに落とし、警戒しながら右足を徐々に後退させていった。
辺りに漂う緊迫感が冷たい冬の空気と溶け合い、触れる度に痛みを伴う。
唖然とした表情から引きつった笑みを浮かべた。
「それ以上、ふざけた真似してみろ。お前の頭、吹っ飛ばすからな」
「真雪」
周囲の喧騒が遠ざかり、無音になる。
真雪は、目を細めるようにして目の前の少年を睨んだ。
身に纏っていた空気が一変する。
それまでの警戒が明確な殺気へと変わっていた。
「いちいちムカつくんだよ、人の弱みばっか突きやがって。俺達は見せ物じゃねえんだ」
美冬の視界の端に球状の光が写る。
近付く足音が止まると、隣には真雪が立っていた。
いつもと違う雰囲気に違和感を抱き、顔に驚きを貼り付けたままで呆然と見つめる。
『これ』は真雪なのか、それとも。
だが、彼は美冬を見ようとしなかった。
「まゆ……」
「言っとくけど、止めても無駄だからな。今、すげえ腹立ってるから」
「でも、こんな所でやり合うなんて……!」
地面を叩く、等間隔の靴音は真雪の苛立ちを表していた。
踵を地面に打ちつけながら苦い表情でヒルデマールを観察する。
今の彼は聞く耳を持たないらしい。
美冬を一瞥するものの、すぐに視線は正面へと向けられる。
些細な動きや瞳の動きにまで過敏に反応した。
全ての音が消えた錯覚に陥る。
向かい合い、お互いを探る無言の時間。
その均衡を破ったのは、笑うヒルデマールだった。
「何がおかしい?」
「つくづく似てるなと思ってさ。単に能力的なものなのかと思ったけど、君達は
何から何まで似てるんだね。まるで一つの魂を分けて生まれてきたみたいだ」
「死ぬかもしれねえって時にノンキなもんだな。そんな事より自分の心配しろよ」
舌打ちを漏らす。
平静を装っていても殺気は消えず、視線は眼前の敵から逸らせようとしなかった。
手のひらの上に浮かぶ球状の光は、まばゆさを強くしていく。
「だけど、君は彼女に比べてエニグマと仲良くやってるみたいだね。死神である事を
受け入れているのか、それとも覇者になりたいのか。どっちなんだろ?」
「うるせえよ」
「ヨイは完全に嫌われ役だけど、シノノメは皆からチヤホヤされるもんねぇ。
そんな能力だったら誰だって喜んで受け入れるよ。羨ましいな」
「黙れって言ってんだよ! 本気で消すぞ、てめえ!」
怒鳴る声に重なるのは砂利を踏みしめる音。
暗闇の中で見えるのは真雪の手中にある淡い光と、金色の瞳だけだった。
美冬の制止は、耳鳴りに似た風の唸り声に消える。
「駄目! 真雪、抑えて!」
殺気が周囲を覆う。
死臭が地を這うように広がっていくのを感じた。
真雪が前方に佇むヒルデマールに向かって腕を振りかぶった、その時。

「……ねえ、エニグマ」
低く放たれた声で一切が止まった。
たった一言で、真雪が呪縛されたかのように固まる。
ヒルデマールの目は笑っていなかった。
そこにあるのは戦意と敵意、そして殺気。
「こんな所でやり合うのは、やめた方がいいと思うよ」
「知らねえな。お前に指図される気はねえ」
「この辺りは五条でも一番人通りが多くて、もちろん此岸の人間じゃない奴がほとんどだ。
そんな所で戦ったらどうなるか、君にだって分かるだろ?」
言いかけた言葉を飲み込む真雪を、美冬が何か言いたげな瞳で見る。
食いしばる表情と訴える視線。
「それに、そこのお姉さんの為にもやめておいた方がいいんじゃないかな。今の状態で、
無関係の人間が死ぬ所見ちゃったら立ち直れないかもしれないよ?」
遠くでサイレンの音が尾を引きながら消えていった。
両側から押し潰されそうな感覚に陥る、ビルとビルの隙間。
存在自体を忘れ去られたような路地で三つの影は佇む。
「言っておくけど、別に君達と戦いに来たワケじゃないんだ。
今日は挨拶。エニグマがどんな人か興味があって、会いに来ただけだから」
溜息混じりに肩をすくめてみせた。
「まあ、そっちがやる気なら受けて立つけどね」
ロングコートのポケットに両手を突っ込んだままで、二人の前に立っているヒルデマール。
飄々とした雰囲気とは似つかわしくない、強い眼光を向けたままで。
「あんだけ胸クソ悪い事言われて、黙って帰すと思ってんのかよ」
「そんな焦らなくても、機会はいつだってあるよ」
読み合う沈黙の中で対峙する。
この距離なら一気に間合いを詰める事も、スキルを撃つ事も出来るはずなのに――真雪は
そう思いながらも、なぜか動けずにいた。
恐れているのだろうか、目の前の少年を。
逡巡と苛立ちに、知らずのうちに舌打ちが漏れた。
「雪が、また僕らを会わせてくれる。東京に降る雪は奇跡と同じなんだ。
全てを白く塗り替えて、真新しい世界になる」

「楽しみにしてるよ、エニグマ。今度は『らしく』なっててよね」
最後に見えたのは寒風に流される緋色の髪と楽しげな笑み。
そして、その言葉は美冬に向けられていた。
きびすを返して遠ざかる靴音。
ヒルデマールが消えた先を見つめる美冬の横顔を見ていた真雪が、不意に顔を上げる。
あったのは違和感。
視線の先には、夜に溶けたビルの屋上に浮かび上がる白。
幻覚にも似たそれは翻り、消えた。

布のように見えた物はおそらく袴、そして外套。
呆然と目の前に広がる、ただ暗いだけの景色を眺めていて合点が行った。
真雪の表情が変わる。
いつかの廃校で、同じ風貌をした者を見かけた。
チャリオットと行動を共にし、全てを知っているかのような口ぶりで話していた人物。
名前は――

「……そういう事かよ」
真雪は呟くと、大きく溜息をつく。
髪を掻き上げながら仰いだ先にあったのは、地上からのライトが伸びた分厚い雲だった。

新しい記事
古い記事

return to page top