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5-3. first snow

テーブルの上の紅茶は、手付かずのまま放置されていた。
柔らかく立ち上っていた湯気はとうに消え、冷え切っている。
木目と白で統一された部屋は静止していた。
音はなく、動くものもない。
あるのはソファに座る二つの人影。
俯く美冬と、それを見つめるノクティルカだった。

「なんか最近、自分が自分じゃないみたいなの。何考えてるんだか分からないんだ。
気持ちばっかり先走っちゃって」
美冬は握り締めた拳を膝の上に置き、視線を落とす。
長い沈黙の後、些細な音にもかき消されそうなほどの音量で途切れ途切れに話し始めた。
表情は垂れた髪で隠され、口元のみが見える。
「あたし、すっごい嫌な奴になっちゃってる。でも、真雪とクララが
仲良くしてるのを見ると、寂しいのと辛いのと腹立つのが全部混ざっちゃって」
笑おうとしているのか、ぎこちなく口元を歪めた。
語尾が震える。
「真雪は悪くないのに、八つ当たりばっかりしちゃってさ。
冷たい態度取る度に後悔して自己嫌悪になるクセに、止められなくなるんだ」
声は沈黙を誘っていた。
話すたびに静寂は濃くなり、声を発するのを躊躇わせる。
彼女の横顔を見つめながら耳を傾けるノクティルカ。
微動だにしない時間が過ぎていく。
「この状態をどうにかしたいって思ってはいるけど、もう遅いのかもしれない。
どうしたらいいか分からないし、あんなトコ見ちゃったら……」
蛍光灯の光が注ぐ部屋は、シンプルなインテリアで調えられているせいか
殺風景に見えるほどだった。
リビングの窓から見えるのは、漆黒の空とビル群の夜景。
カーテンの隙間から呼吸に似た点滅を繰り返す赤い光が見える。
部屋の隅のエアコンが低く唸った。
「……ごめん」
顔をあげた美冬が何かに気付いたのか、急に言葉を切る。
息を飲むように言い淀んで唇を噛んだ。
視線が合っても、すぐにそらされる。
「何故謝るんです?」
「だって」
「貴方は悪くないでしょう」
「こんなの、ノクティルカさんに言う事じゃない。気分悪いでしょ」
プリーツスカートのひだを指でしごきながら、落ち着きなく視線を動かしていた。
どこか不貞腐れた調子の言葉にノクティルカが小さく笑う。
足を組みかえるとソファの革が擦れる音が聞こえた。
「貴方が話して楽になるのでしたら、いくらでも聞きますよ。
話す事で気持ちの整理が出来る事もありますし、溜め込むのはよくありませんから」
「ありがと。でも、ごめん」
「謝らないで下さい、ラプター」
「……あたしは、ノクティルカさんの気持ちを知らないワケじゃないのに。
もし逆の立場だったら、こんな話聞きたくないもん。誰かに妬いてる話なんて」
返ってきた言葉に曖昧に微笑む。
美冬の声や視線に覇気はなく、弱々しかった。
黙り込む回数が増える。
「心配こそしていますが、気分を害したとは思っていませんよ」
「ホント?」
「はい」
窺う視線に頷いた。
聞こえた溜息は安堵か、それとも。
ノクティルカは重く沈んだ空気を取り払いたいのか、つとめて明るい表情を作ってみせる。
美冬の頭に手を置くと、軽く数回叩いた。
「ですが、ある程度はプライベートと仕事を分けた方が良いかもしれませんね。
今回は何事もありませんでしたが、いつもそうとは限りませんし。
関係が悪くなったせいで危険な目に遭った、なんて目も当てられません」
「うん、そうだね」
「とは言え、なかなか難しいですよね」
苦笑気味の言葉に、美冬が目を細めて微かに笑う。
わずかな表情の変化ではあったが、それを見たノクティルカが安堵の息をついた。
エアコンが吐き出す温風が肌を撫でて通り過ぎる。
重い空気が変わった気がした。
「やっと笑ってくれました」
「え?」
「ここ数日、ずっと笑ってなかったでしょう?」
その問いに呆気にとられた表情を浮かべる。
咄嗟に頬に手を当てて、笑うノクティルカを見る美冬。
何事かを思案しているのか、視線が頼りなく彷徨っていた。
そして、ややあって俯き加減で笑いを漏らす。
「やっぱり、ノクティルカさんには敵わないや。自分でも気付いてなかった事、
分かってるんだもん。あたしが落ち込んでるといつも助けてくれるし」
「それは、いつも見ているからかもしれませんよ。つい、気になってしまうんです。
貴方にしてみれば、迷惑で鬱陶しいかもしれませんが」
「そんな事……」
美冬が急に押し黙った。
動きを止め、食い入るようにノクティルカを見つめる。
今まで浮かんでいた薄い笑みは消えていた。
疑問の視線で見返しても、飲み込んだ言葉の続きを言う気配はない。
ただ、身体をノクティルカに向けて瞳を覗き込むだけで。
「ラプター、どうしました?」
恐る恐る尋ねるが応答はない。
ノクティルカは突如訪れた美冬の変化に戸惑いながらも、状況を把握しようとしていた。
考えを巡らせ、脳裏に浮かんだのは『エニグマ』という単語。
だが、この部屋に死臭はない。
「何か感じましたか? それとも」
「……ねえ、ノクティルカさん」
美冬が真剣な面持ちで名を呼んだ。
普段の無邪気さや明るさは影を潜め、思い詰めた色が滲んでいる。
華奢な指が死神のジャケットを掴んだ。
まるで、すがる格好で。
ノクティルカは視線の強さに気圧され、動きを止める。
時間が静止するのを感じた。

「ノクティルカさんは、ずっと側にいてくれる?」

突拍子もない言葉。
意味を捉え損ね、ただ相手を見つめる。
今のノクティルカには問いの意味を聞く事も、笑って受け流す事も出来なかった。
二人は向かい合って見つめたまま微動だにしない。
「これからも今までみたいに、あたしを見ててくれる?」
遠くで咆哮に似たサイレンの音が聞こえた気がした。
濃い静寂に耳鳴りが生じる。
まっすぐに向けられた視線に息苦しさを感じた。
だが、視線はそらせずに。

ノクティルカは美冬を見つめたまま、考える。
この突然の質問の意図はなんなのだろう。
彼女が黙り込んだ理由はなんなのだろう、と。
どんな答えを望んでいて、どんな事を考えているのか。
思いつめた表情に胸が締め付けられた。
どんなに考えても相手の気持ちを察する事が出来ないのも、
答えの出ない事で悩んでるのも承知だ。
だが、正直に答えるのならば――

「はい、もちろん」
ノクティルカは口元に笑みを浮かべたままで頷いた。
その答えに美冬は笑う。
くすぐったそうに、どこか寂しげな色を含んだ表情で。

前触れなく伸ばされた手が、ノクティルカの頬に触れる。
ソファが小さく鳴く音が聞こえたと思うと、美冬が距離を縮めるように座り直した。
触れる手と手、伝わる体温。
思いつめた視線と戸惑う視線が絡み、息が詰まる。
美冬が口角を上げて笑みを作ると身を乗り出した。
視界が遮られる。
鼻腔に届いた芳香で、距離の近さを知った。
間近で生まれた溜息が唇に触れる。
一瞬の躊躇いの後。
美冬はノクティルカの唇に口付けた。

重なったシルエットが動き、唇が離れる。
美冬は、唖然とした表情で固まるノクティルカを見つめた。
鼓動だけが響いている部屋。
何もかもが止まっている。
「ラ、ラプター?」
「ノクティルカさん、しよ?」
「しよう、とは?」
呆気にとられたままで言葉を反復する。
狼狽するノクティルカとは裏腹に、美冬は表情を崩そうとしなかった。
その瞳には切なげな色が宿る。
何かを言おうと口を開くが、無言のまま止まるノクティルカ。
その度に、話すことさえ忘れてしまいそうな沈黙が押し寄せた。
「……エッチ、しよ」
「冗談はやめて下さい。大人をからかうものではありません」
「からかってない。冗談でこんな事言えないもん」
予想外の言葉に硬直した。
ややあって繕うように笑うが、向けられた視線の真剣さに表情が消える。
ただ見つめた。
「あたし」
美冬はノクティルカの腰に腕を回すと、もたれかかる格好で抱きつく。
シャツから体温が滲み、同化していく感覚。
間近に聞こえる鼓動はどちらの物か分からずに。
見上げ、眼鏡越しの赤い瞳を見つめる。
「ノクティルカさんのモノになりたい」
短く発した言葉が、無言の時間を生んだ。
探るように見つめ合う。
数秒後、ノクティルカは美冬から視線をそらすと深く溜息をついた。
戸惑い、宙に浮いたままだった右手がネクタイの結び目に触れ、緩める。
「……いいんですか? 真に受けますよ」
見つめ、放たれた言葉。
ノクティルカは眼鏡を外すとテーブルの上に置いた。
指は美冬の顎を持ち上げ、頬を包む。
首を傾げるようにして、心細げに目を伏せる彼女の耳元に唇を近付けると
口付ける距離で何事かを囁いた。
頷く仕草に目で微笑む。
にわかに強く吹いた風が窓を叩く音が耳に届いた。
わずかでも動くと衣擦れの音が聞こえる。
「ラプター」
美冬は小さく頷くと密着させていた身体を離した。
ぎこちない動作でノクティルカの手を握り、視線をそらす。
頬が紅潮しているのを隠そうとしているらしく、俯いたまま顔を上げようとしなかった。
頭上から漏れる小さな笑みが聞こえているのか否か。
そして。

ノクティルカは美冬の髪に数秒間唇を当てると、強めの力で髪を撫でた。
突然の行動に、思わず顔をあげる美冬。
そこには微笑むノクティルカの顔があった。
「……先ほどの言葉は、貴方の本心ではないでしょう? 自暴自棄になってしまったら
貴方は後悔します。私もそんな状態の貴方とこんな事をするのは本望ではありません」
驚いた表情のまま固まる顔に、諭す口調で話す。
ソファに座った二つのシルエットは向かい合ったままだった。
腰に触れていた美冬の手が、ジャケットを掴む。
「一時的な感情に流されるのではなく、本当の気持ちで貴方に振り向いて欲しい。
そう思うのは私のワガママでしょうか?」
瞬きを忘れていた瞳に涙が滲んでいく。
何事を言いかけて、言葉にならずに目を硬くつぶった。
黒いプリーツスカートに雫が落ちる。
「ご、ごめんなさい。あたし……」
「いいですよ、何も言わなくても」
話す度に声が潤んだ。
ノクティルカは美冬の目の下を指で拭う。
「別に自棄になって言ったワケじゃないの。きっと、ノクティルカさんだったら……」
頭を振ると髪が動きにあわせて揺れ、肩に滑り落ちた。
言いかけた言葉を遮る、唇に当てられた人差し指。
美冬は指とノクティルカを交互に見比べた後、わずかに顎を引いた。
間近で、息をつく気配を感じる。
ノクティルカは、押し黙った美冬を抱きしめた。
何者から隠すように彼女の顔を自分へと押し付ける。
「少し、こうしていましょうか」
華奢な肩が震えている事に気付き、手に力を込めた。
一つになる黒いシルエット。
整然とした部屋の中で、それは長い時間動くことはなかった。

「あ」
十数分が経った頃だろうか。
黙りこくってノクティルカに抱きついた美冬が不意に声を上げる。
肩越しに何かを見つけたらしく、前方の窓を見つめていた。
「どうしました?」
「雪」
「え?」
「雪が降ってる」
その言葉に、ノクティルカが美冬から身体をはがすと後方へ顔を向ける。
見えたのは漆黒の中に舞う白い欠片。
見定めると笑みを浮かべた。
「本当だ。初雪ですね」
「ねえ、ベランダに出てみようよ」
「……寒いです」
「コート着れば大丈夫だって!」
今まで沈んだ表情をしていた美冬が弾んだ声で誘う。
はしゃぐような動作で立ち上がると、嬉しげにノクティルカの腕を引っ張った。
沈んでいた空気が軽くなる。
「はいはい。もう、仕方ないですね」
苦笑と安堵の混じる声が答えて、二つ分の足音が遠ざかっていく。
そして、カーテンを開ける音と重なる歓声。
漆黒の空には、無数の羽根に似た雪が舞っていた。
 
 
 
ベランダにはコート姿の2人の姿がある。
飽きもせずに空を見上げる美冬を、隣に佇むノクティルカが笑いながら見ていた。
鋭い冷気が容赦なく肌を刺す。
眼下に広がる夜景や離れた位置にそびえるビル群は、雪のせいか霞んで見えた。
「ん? どうかした?」
自分に向けられた視線に気付いた美冬が隣に顔を向ける。
笑っているのを不思議に思ったらしく、首を傾げて問うた。
「いいえ、安心してしていたんです。少し元気になったのかな、と。
雪に感謝しないといけませんね」
「子供だって笑う?」
「今日は笑いませんよ」
にわかに強く吹いた風に首を縮めながら言う。
話すたびに白い息が生まれた。
降る雪は細かく、今にも消えてしまいそうな大きさだ。
おそらく数分でやんでしまうだろう――ノクティルカは心の中で呟く。
「そういえば雪と言えば、この街には都市伝説がありましたね。
雪花(ゆきはな)でしたっけ。世界が滅びる時に降るといわれる、花に似た雪だとか」
「え?」
両手を合わせて、息を吐きかけていた美冬が動きを止めた。
眉間にしわを寄せて首を傾げている。
その様子に思わず二人で顔を見合わせた。
「あたしの知ってる話と違う」
「そうなんですか」
「うん、雪花って奇跡を呼ぶ雪の事でしょ? それが降ると奇跡が起こるって聞いたよ」
手のひらを空に向けて、雪を受け止めようとする。
軽く唸って虚空を見つめるノクティルカを一瞥して、小さく笑った。
「それはどっちが本当なのでしょう? いや、都市伝説なんですから
そもそも雪花自体の信憑性が薄いのですが」
「うん。でも、どうせなら楽しい方を信じたいな」
「そうですね」
心なしか、いつもより街が静かである気がする。
一見して車通りはいつも通りで、夜遅い時刻であるにもかかわらず
テールランプの列が出来ているのが遠目でも分かった。
街の灯が少ない訳でもない。
雪が音を飲み込んでしまっているのだろうか。
ノクティルカが街を見下ろしている時、美冬が寂しげな表情を浮かべている事に気付く。
今にも泣きそうであるのに、無理に笑っているように見えた。
「どうしました?」
「あ、ごめん。なんでもないの」
「大丈夫ですか?」
「うん……ちょっと、雪花の事を教えてくれた人の事を思い出しちゃっただけだから」
気遣う視線に苦笑して、正面を向く。
それは視線から逃れようとしている風でもあった。
手すりに手を置くと指でリズムを取る。
美冬は風の匂いを嗅ぐように、目を閉じた。
「あたしのお兄ちゃん。もう随分前に死んじゃったんだけどね。雪が大好きで、
雪花は絶対にあるって信じてる人だった」
「そうなんですか」
「うん。雪が降る度に雪花の話をいつもしてて、ずっと待ってたんだ。
そんなの、迷信かもしれないのにさ」
耳元で風が唸る。
冷気に触れた肌が痺れるのを感じた。
ノクティルカは俯き加減に笑う美冬を見つめる。
「『雪は魂なんだ。死んだ人が、みんなに会いに来るんだよ』」
近付く救急車のサイレンの音が、水音を伴いながら通り過ぎていくのが聞こえる。
歌うように紡ぐ言葉。
「『離れてても一緒だよって、だから泣かないでって言いながら』――そう言ってたっけ。
雪が降る度にお兄ちゃんを思い出すんだ。向こうでも雪が降ったら喜んでるのかな」
空を仰ぐ顔は、唇を強く噛んでいた。
「……だから雪は好きだけど、嫌い」
身体を縮め、表情を歪ませながら呟いた。
ノクティルカは美冬の肩に腕を回すと自分の方へと引き寄せる。
驚いて見上げる顔を見返そうともせず、正面を向いたままで。
「すみません。でも、こうさせて下さい」
その言葉に、美冬がくすぐったそうに笑った。
もたれかかりながら目を閉じる。
大きく、白い息が漏れた。
「平気。今は辛くない」
独りごちる声が遠くから届く喧騒に消える。
「……どうしよう。ドキドキしてるの、真雪にバレちゃうかも」
小さく笑みを浮かべた声が言う。
気付けば雪はやみ、跡形もなくなっていた。
降っていたこと自体が幻であったかのように。
 
「ラプター」
しばらく黙り込んでいたノクティルカが名を呼ぶ。
顔を向ける美冬を見つめ返すと口元だけで微笑んだ。
「明日、レイヴンと話しましょう。彼もそれを望んでいます」
「え?」
「きちんと話をするべきです。それが貴方達の為であり、私の為でもある」
迷っているのか、美冬の視線が不安げに揺れる。
言い淀む様を見て、ノクティルカが肩を抱く手に力を込めた。
静かに微笑む。
漆黒の空と街の灯が滲んで見えた。
溜息が形を成し、生まれたそばから消えていく。
「大丈夫」

「貴方達は迷って、少し遠回りをしてしまっただけですよ。すぐにまた出会えます」

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