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3-4 Tiny Monster

死臭は死に際に命から放たれる物であり、死のある場所には必ず存在する。
此岸の者でなければ感じられない訳ではなく。
得体の知れない不安や、どことなく重く感じる空気――それが死臭。
事務所のある夜見坂本界隈は、それが濃く漂っていた。
目に見える異変は何もなく、同じ景色であるのにもかかわらず
異形の者は息をひそめ、道行く人々は一様に漠然とした違和感を抱く。
ウタカタが『エニグマが完成した』と言った日は、そんな晩だった。

閉めきられているはずのドアの隙間から死臭が忍び込む。
急に濃くなったそれを不審に思っていると
階段を上る複数の靴音が近付いている事に気付いた。
聞き取る事は出来ないが、街の喧騒に飲まれかけた男女のやりとりも聞こえる。
比良坂事務所にいる黒いスーツの死神達は誰からともなく顔を見合わせ、
ドアを凝視した。
「ほら、しゃがんでないで中に入るぞ」
「だってシノノメ、オバケが来るって言った!」
「いい子にしてないと、だよ。そんな所にずっといるワケにもいかねえだろ」
開かれたドアから見えたのは、何かに手を引っ張られながら足元に視線を落とす真雪。
呆れと苦笑を混ぜた声を投げる。
冷気か死臭か分からない冷えた空気が踊りこんできた。
誰もが緊張し、表情をこわばらせているのが分かる。
声は美冬であるものの、辺りの雰囲気を一変させる威圧感があるからだ。
「悪い、遅くなって。ただいま」
どこか倦怠感が滲む調子で言った。
事務所にいた一同の視線が真雪と美冬に集中する。
ぎこちなく笑うが、凍りついた空気の中ではすぐに消えていく。
窓の外に広がるネオンにまみれた景色も、騒音に似た音楽もいつもと何も変わっていなかった。
違う点があるとすれば。
真雪の手を強く握り、好奇心と警戒をたたえた目で辺りを観察する美冬。
いや、エニグマのヨイだった。

ダンデライオンは目の前の少女を眺める。
確かに彼女は美冬ではあるが、まるで別人だった。
まとう空気や瞳の色はもちろん、どことなく顔立ちも違って見える。
――これが、あの『死を撒き散らす』エニグマのヨイか。
そう思いながら見つめると視線を外せなくなった。
死臭がそうさせるのか、彼女の存在が人を惹きつけるのか。
ともすれば、呆けそうになる事に気付いて我に返る。

「おかえり。ずいぶん時間がかかったけれど、何があったのかい?」
「ああ、途中で大先生の所に寄って手当てしてもらってたんだ。
念の為に人通りの少ねえ道選んで帰ってきたんだけど、コイツはコイツで
何にでも興味示すもんでさ。歩いて10分の距離なのに、すげえ時間かかっちまったわ」
肩をすくめながら笑うと、かたわらを顎で示した。
ダンデライオンは軽く頷いて美冬に笑いかける。
彼女は黒いスーツに囲まれる格好になり、緊張の面持ちで真雪の手を強く握っていた。
「はじめまして、エニグマのお姫様。ようこそ、我ら死神の住処へ」
警戒心を解こうとしたのか、おどけた口調で言う。
右足を引いて腰をわずかに落とし、胸に手を当てるダンデライオン。
そんな行動に周囲から小さな笑みが漏れる。
「ほら、『はじめまして』だって。挨拶されたら何て言うんだ?」
真雪が顔を上げる美冬に笑ってみせ、握った手を振って促した。
何かを訴えるように見上げていた金色の瞳が恐々とダンデライオンに移る。
この部屋で動くものはなく、静まり返っていた。
遠くからの繁華街の賑やかさだけがすり抜けていく。
あと数十分で日付が変わろうとしているにもかかわらず、人は多いようだった。
「……こんにちは」
「偉いぞ、ヨイ。ちゃんと挨拶できたな」
頭を撫でる真雪の手の感触に目を細める美冬だったが、
何かに気付いたのか表情と動きが止まる。
手を繋いだままで一方を凝視していた。
ソファに移動しようと誘う声も聞こえない様子で、微動だにせずにその方向を見つめる。
「どうした? 何か見つけたか?」
「何かが気になってるようだね」
問う声に、サーペントの声が重なった。
美冬は窓の外を見ているのかと一同は思っていたが、どうやら違うらしい。
真雪が美冬の視線を辿っていくと。
「なんだ、ノクティルカが気になるのか」
合点が行き、笑う声。
そこに居たのは書類を持って立つノクティルカだった。
無遠慮な視線を向けられ、戸惑い気味に首を傾げる。
笑いかけられても表情を変えようとしない美冬。
食い入るように見つめる強い視線は、敵かどうかを判別しているようでもあった。
「アイツはノクティルカだよ。俺達の友達」
「友達?」
「楽しい時は一緒に笑って、困った時は助け合う人の事だよ。
ノクティルカだけじゃなくて、ここにいる奴等はみんな俺達の友達だ。敵じゃない」
静止していた室内の空気がわずかに動き、控えめに靴音が響く。
ノクティルカは美冬の前に行くと腰を屈めて視線を合わせた。
わずかに身構え、真雪と繋いだ手に力を込める様子に小さく笑みを漏らす。
「こんにちは。私とお友達になって下さいますか?」
微笑む声と視線。
一瞬美冬の動きが止まったと思うと、慌てた様子で真雪の背中に隠れた。
ジャケットを強く掴む手。
素早い行動に真雪とノクティルカが顔を見合わせて同時に吹き出す。
「何だよ、恥ずかしいのか」
「振られてしまいました」
「ヨイ、ノクが友達になろうっつってんだから返事しなきゃ」
身体をねじって笑う真雪の背後から、恐る恐るといった風の動きで
半分だけ顔を出して、ノクティルカを窺う美冬。
今まで室内に立ち込めていた緊迫感が微笑みに変わっていく。
いまだ濃い死臭は存在しているものの、心なしか空気が軽くなった気がした。
 
 
窓の外には毒々しい色のネオンが点滅を繰り返している。
どこかで酔っ払った風の嬌声が上がり、無数の人の気配を階下から感じた。
時計の針は12時に向かって進んでいるが、まだ街が眠る気配はなかった。
「それにしても驚いたな。エニグマに覚醒すると、ここまで変わってしまうものなんだね。
死を撒き散らすと言われる位だから、どんなに怖い存在なのかと思っていたのだけれど」
応接セットのソファに一同が揃っていた。
向かいの席に座った美冬がケーキを食べている姿を見ながら、
ダンデライオンは苦笑に似た笑みを浮かべる。
ファックスを設置した、離れた位置ではノクティルカが紙片を眺める姿が見えた。
「一旦キレると危ないけど、それ以外は子供だよ。やたら無邪気で、よく笑うしさ。
遠慮なしに人に絡んで、はしゃいでたと思えば急に人見知りするのが
イマイチ分かんないけど」
「そう言う割に扱いが慣れてるじゃないか」
「まあ、ここに来るまで長かったからね。大変だったんだぞ、大先生のトコで。
泣くわ、暴れるわでさ。俺、今日だけで3日分くらいのエネルギー使った気がする」
真雪がソファに脱力したようにもたれると、大きく息をつく。
その様子に、ダンデライオンの背後に立っていたウォークライが微かに笑った。
「だが、特に大きい被害もなくて良かったじゃないか」
「美冬が怪我して、エニグマになってる状態が大きな被害じゃないのか分からねえけどな」
「この程度で済んでよかったと思うよ」
「そうさね。エニグマになってる上に、あのアブソルートとやってたんだ。
最悪の事態が起こったって、おかしくなかったんだよ」
投げられた言葉に、思案している風の顔のままで頷く真雪。
背もたれに腕を投げた状態で、足をぶらつかせながらフォークをくわえる横顔を見る。
ややあって、再び軽く数度頷いて見せた。
「そりゃ、そうなのかもしれないけど」
「何はともあれ、君達が無事で良かった。アブソルートと交戦している上に
ラプターがエニグマに覚醒したと聞いた時は覚悟をしていたからね」
「大袈裟なんだよ、親父は」
「いや、大袈裟じゃないよ。君は自分達がどんな存在であるか、まだ分かっていないんだ。
今回は軽はずみな行動はしていないから良かったけれど、一歩間違えると
取り返しのつかない事態になってしまう所だった」
紅茶の入ったティーカップを持ち上げたままで表情を引き締めるダンデライオン。
口調は柔らかいままであったが、瞳は真剣そのもので。
空気が深刻になりかけたのが分かったのか、今までケーキを頬張っていた美冬が
辺りを見渡す。
咀嚼しながら真雪を見つめる様は、何かを尋ねているようにも見えた。
「なんでもねえよ。大丈夫、ケンカしてるワケじゃねえから」
「本当?」
「ああ……って、ほらー。口の周り、クリームでベタベタじゃねえか」
「んむー」
口を拭いてもらいながら嬉しげに目を細める美冬の姿に、サーペントが微笑む。
火の付いていないキセルを手にしたままで、目の前に座る二人を眺めていた。
「とにかくね、坊主」
にわかに風が強く吹き、窓ガラスが震える。
室内には眩しいくらいの蛍光灯がともっているものの、どこか物寂しい雰囲気で
些細な音でも大きく聞こえた。
「エクスが狙って来て、今回で終わるとは思えない。これからも注意するんだよ」
「そうね。まだやるって言ってたしな、あっちも」
「チェイサーギルドに問い合わせたら『こちらはエクスキューショナーと連携していない』
『動きは把握していない』の繰り返しだったからねェ。注意のしようがないのかもしれないけど」
「まあ、それなりに警戒は……ヨイ、もう『ごちそうさま』か?
まだケーキ残ってるじゃねえか」
フォークが皿の上に転がる派手な音と、立ち上がる気配に声が飛ぶ。
ソファから離れ、駆けようとしていたヨイはスカートの裾を翻して振り返った。
何かを大事そうに胸に抱いたままで首を横に大きく振ってみせる。
その度に翡翠色の艶やかな髪が柔らかく揺れた。
「また後で食べる!」
「後では残ってねえぞ。この顔の怖い兄ちゃんが全部食っちまうから」
「……悪かったな、顔が怖くて」
ウォークライが低く呟いた言葉に笑いが起きる。
ヨイは小走りで室内を駆けていたが、ある地点で立ち止まった。
それはソファに座っていた時から、ずっと気にしていた方向。
背後から聞こえる話し声を気にする様子もなく、目の前にある黒を興味深げに見つめる。
そこには印字されたファックス用紙に目を走らせるノクティルカがいた。
視線に気付いて後ろを振り返る。
「どうしました?」
平静を装って笑いかけるが、目を見る度に感じる不安を押し殺す事は出来なかった。
爪先から脳天まで悪寒が一気に駆け巡る。
彼女が発するのは禍々しさすら感じる死臭だった。
「ええと」
金色の瞳に怯えに似た緊張が宿る。
ぶつかった視線はすぐにそらされ、意を決したように顔を上げるものの
すぐ口ごもった。
胸に抱いていた雑誌を強く抱きしめたまま身体を等間隔に揺らす。
「ご本」
「はい?」
「ご本。ノクティルカ、ご本読んで」
数秒の躊躇いの後、発せられた言葉。
恐る恐るといった動きで胸元に雑誌を押し付けられたノクティルカは
美冬と雑誌を交互に見比べた後、息をつくように笑い。
「いいですよ」
腰を屈めて視線を合わせて頷いた。
その途端に美冬の表情が明るくなる。
緊張が解けたのか、無邪気な笑みを浮かべながら踵を上下させてリズムを取っていた。
跳ねる動きにポニーテールが楽しげに揺れる。
それを見ていたノクティルカの顔にも、つられて笑みが浮かんだ。
「じゃあ、こっちで座って読んで!」
今までの遠巻きに窺うような雰囲気から打って変わって、人懐っこさが姿を表す。
甘える視線で見上げながらノクティルカの手を引っ張った。
はしゃぐ靴音とバランスを崩しかけた靴音が重なる。
「……ヨイはこの本を読んで欲しいんですか?」
「うん」
「これは、ちょっと面白くないかもしれませんよ」
「駄目?」
応接セットを背にする、部屋の中央の地点で止まった。
押し付けられた雑誌の表紙を眺めながら顔をしかめる姿に、
美冬は表情を曇らせて心配そうに見上げる。
「駄目ではないですが、『闇の10年戦争に決着! 暴力団抗争総力取材』というような
記事が載っている雑誌は、どう考えても読み聞かせには不向きだと思うんですよね」
「やだ、ご本読んで! ヨイはご本読んで欲しいの!」
「うーん、どうしましょうか」
表紙と裏表紙を交互に見比べながら軽く唸ったノクティルカの動きが止まった。
視線は裏表紙の全面に広がる、色鮮やかな写真入りの映画広告に向けられている。
そして自分のジャケットを引っ張り、唇を尖らせる美冬の頭に手を乗せた。
ぶつかる視線。
「それでは、私が何かお話をして差し上げましょう。どうですか?」
一瞬、言葉の意味を捉えそこなった美冬が首を傾げていたが
ようやく合点がいったらしく、何度も大きく頷く。
冷たい床に座り、期待した目で見上げてくる様子にノクティルカが小さく苦笑した。
 
「ある海底の国に人魚姫が住んでいました。彼女は六人姉妹の末っ子で
それはそれは美しく、誰よりも歌が上手な女の子。
外の世界に憧れていた彼女は話を聞いては想いを馳せ、海の上へ昇っていいと
約束をしていた15歳の誕生日を心待ちにしていました」

遠くのサイレンが消えていく気配を感じた。
街の灯は次第に数が減っているものの、まだ賑やかである事には変わらず
窓の外は眠る事を忘れたように明るい。
空調の風が降り注ぐ場所に座り込んだノクティルカが話し始めると、
美冬は、彼を座椅子代わりにするように足の間にもぐりこんだ。
「人魚?」
「上半身が人で、下半身が魚の姿をしているといわれている生き物の事ですよ。
歌で船を難破させてしまうという言い伝えがあります」
ノクティルカにもたれた美冬が不思議そうに問う。
雑誌を持っているものの、手持ち無沙汰にページを捲るだけで読んでいる気配はなかった。
応接セットからの話し声と、時計の音、本を繰る音が穏やかに流れる。
「そして、いよいよ15歳の誕生日。
海の上へ昇った人魚姫が見たのはキラキラ光る波や花火、大きな船でした。
とても賑やかで、船の上ではパーティーが行われているようです。
そこに居たのは一人の王子様。なんて美しい人なんだろうと人魚姫は思いました」
「そういえばラプターの姿が見えないけれど。レイヴン、大丈夫なのかい?」
「ん、ソファの裏に座ってるよ。ノクティルカに話聞かせてもらってるみたい」
話を聞かせる声に、笑み混じりの真雪の声が重なった。
人の立ち上がる気配と覗き込む視線を感じたが美冬は気にする様子もない。
身体をねじるようにして振り返り、自分を抱えて座る死神の顔を見つめる。
「その時です。急に空は雲に覆われ、波が荒れ始めました。
船は大きく揺れ、空に稲光が走ったと思うと船を貫きました。
あっという間に船は嵐に飲まれ、海の中。王子様も海へ落ちてしまったようです」
「大変!」
「人魚姫は嵐の中を泳いで王子様を助けると、岸まで届けました。
どうかこの人が助かりますようにとキスをして」
驚いた表情で声を上げる様子に、言葉を紡いでいた口元が微笑む。
時折思い出そうとしているらしく、眼鏡の奥の赤い瞳が遠くを見た。
視線の先には暗いだけの漆黒の空。
暗闇の中でも厚い雲が流れていくのが分かる。
「ところで、アブソルートはどうした?」
「放っておいた。結構ヨイがダメージ与えて、倒せねえ事もねえって感じだったんだけど
向こうが退こうとしてたから無理に止めなかったんだわ。火に油、注ぎたくねえし」
「それが正解だよ。彼は此岸内でも上位の戦闘力を誇る。
戦わずに済むのなら、それが一番いい。僕らの目的は彼を倒す事ではないしね」
「それからというもの、人魚姫は来る日も王子様の事ばかりを考えていました。
何度も王子様と別れた岸に行っては、ため息をつく日々。
そして、とうとう人魚姫は人間になる事を決意します。あの王子様に会いたいという一心で」
時間が静止している錯覚に陥った。
視界の中に動くものはなく、まどろみに似た空気が流れる。
「人魚姫は魔女の所へ行き、人間になる方法を教えてもらいました。
それは人魚姫の綺麗な声と引き換えに薬を渡すというのです。
その薬を飲むと美しい尾ひれは足となりますが、歩く度にナイフで抉るような痛みを
感じると魔女は言います。そして、王子様と結ばれなければ海の泡になってしまうとも。
それでも人魚姫の決意は変わりませんでした」
「でも正直、こんなんが何度も続いたら身が持たねえぞ。今日はヨイが起きたから
助かったようなモンでさ。ヨイに関しても今回みてえに、どうにかなるって保障はねえし」
「まァね。何か方法がありゃアいいんだが」
「そして人魚姫は薬を飲んで人間になり、王子様のいるお城で侍女として
暮らす事になりました。けれど、王子様は嵐の晩に助けたのは人魚姫だという事を知らず、
違う娘を命の恩人だと思い込んでいたのです。
人魚姫は助けたのは自分だと言いたくても喋れません」
美冬は話すのを黙って見つめ、聞き入っていた。
二人の背後で真雪が身体を伸ばしているらしく、腕だけが見える。
言葉には溜息と疲労が滲み、誰ともなく黙り込んでいた。
「そんなある日、人魚姫は王子様が隣の国のお姫様と結婚する事を知ります。
驚き、悲しむ人魚姫。なぜなら、王子様が自分以外の人と結ばれてしまったら
自分は海の泡となって消えてしまうからです」
「どうするの? 人魚姫は死んじゃうの?」
「そんな人魚姫を心配し、哀れに思った彼女の姉達は一本の剣を渡します。
それは自分達の髪と引き換えに魔女から貰った魔法の剣でした。
それで王子様を殺せば元の姿に戻る事が出来るというのです。期限は朝日が昇るまで。
人魚姫は悩みました」
ノクティルカに向き直り、腕を掴む美冬。
すがりつく格好で真っ直ぐ見つめる様は何かを訴えている風にも見える。
わずかに困った表情で見つめ返していたノクティルカは頭上に気配を感じ、振り返った。
いたのは、背もたれに顔を乗せた状態で話を聞いていた真雪。
目が合い、思わず笑みを交わす。
「ねえ、人魚姫はどうしたの? 王子様を殺したの?」
「さあ、どうなったでしょう。ヨイなら、どうしますか?」
「ううん……」
不意に訪れた沈黙。
金色の瞳を持つ死神は唇に指を当てたままで黙り込んだ。
一点を見つめ、表情を曇らせたままで考えを巡らせる。
時計の音ばかりが通り過ぎていった。
「王子様を殺せば海へ戻れるんだ。でも、王子様の事が好きなんだよね?」
「そうですね。人魚姫は王子様に会いたくて人間になったんでした。
好きで、側にいたいと思ったから」
「どっちも助かるのは無理なのかなぁ」
小さく呟く声に真雪とノクティルカは笑みを漏らした。
窓を叩く風の音。
暖房の風に揺れた髪が頬に纏わりつくのも厭わず、美冬は首を傾げた姿勢で固まる。
十数秒の間の後、彼女は顔を上げた。
「王子様を殺すのは簡単だけど、殺せないと思う」
その言葉に、真雪がソファの背もたれにしがみつきながら美冬を見つめた。
「何でだ?」
「だって、きっと殺して海に戻っても『ダメな事した』ってションボリすると思うよ。
王子様は結婚して、きっと幸せなんだよね。だったらヨイはいいや」
「王子様を殺さなかったら自分が死んじまうんだぞ。それでもヨイはいいのか?」
意外そうに尋ねる声に美冬は嬉しげに笑うと、首を縦に振って見せた。
自分を見つめる二つの視線を交互に見比べながら垂れた髪を指に絡めて遊ぶ。
「ノクティルカ、人魚姫は王子様の側にいたくて人間になったんでしょ」
「ええ」
「なら、もう幸せだったと思うよ」
一瞬の静寂。
無邪気な声に真雪とノクティルカが、わずかに驚いた表情で顔を見合わせる。
そんな反応をよそに、美冬はノクティルカの腕にじゃれつきながら
彼の方へもたれかかった。
「……ガキだと思ったら、こんな事言うんだもんな。ビックリするわ」
「王子様の側にいられて既に幸せだった、ですか。面白いですね」
「何ー? シノノメ、なあに?」
「ヨイが大人だって話だよ」
眉間にしわを寄せて怪訝そうにする美冬の頭を、ソファから伸びた腕が乱暴に撫でる。
その感触に、ヨイと呼ばれた少女は無邪気に声を上げて笑った。
ここにあるのは死臭。
けれどその死臭は穏やかで、死とは程遠い物に感じた。


どのくらいの時間が経ったのだろう。
美冬は薄く目を開け、ぼやけた景色を見渡す。
そこで初めて、自分が眠っていた事に気付いた。
「……ここ、事務所……?」
無意識のうちに口から疑問が滑り落ちる。
寝ぼけた頭で改めて見てみると、確かに比良坂事務所ではあったが
何故か床に座り込んでいる事に気付いて怪訝に思った。
わずかに痛む頭を手で押さえながら思い出そうとする美冬。
イレギュラー討伐に行こうとした所に、アブソルートに襲われかけて――
「目が覚めましたか」
間近に聞こえた声に思考が途切れ、我に返る。
呼吸を忘れ、目を見開いたままで声の方向に勢いよく顔を向けた。
そこには。
「ノ、ノク……ええ!? ちょ、えええ!?」
「すみません、驚かせてしまいましたか」
「い、いや。ごめん! 何で!?」
「何で、と聞かれると答えに困りますね」
今まで美冬がもたれかかっていたのはノクティルカであったらしい。
床に座ったままの彼は、慌てふためく姿を唖然とした表情で眺めている。
反射的に視線を向けた窓の向こうには白み始めた空。
繁華街のネオンは消え、死んだ沈黙が広がっていた。
遠くでバイクの走る音が聞こえる。
「え、あたし寝てた!? いつから!?」
「12時頃からですから、3時間半くらいですか。おそらく疲れていたんでしょう。
レイヴンは隣の部屋で仮眠を取っていて、他の方はもう帰られ……」
「やだ、あたしヨダレ垂れてる! ていうか、右手怪我してるじゃん!
どういう事!?」
「ラプター、ちょっと落ち着きましょう」
動揺をあらわにしながら右手に巻かれた包帯を驚いた表情で見つめる。
腕にも巻かれている事に気付いたのかジャケットに恐々と触れた。
ノクティルカは呆気にとられた様子で美冬を眺めていたが、
ややあって何かを思い出したように唇を噛む。
困惑する彼女を見て何かを言おうとしながらも躊躇っていた。
「記憶が曖昧で今は戸惑っていると思いますが、落ち着いて聞いて……」
「わー! ていうか、ノクティルカさんの膝に座ったままだった! ごめんね!
よく分かんないけど本当にごめん!」
「……あの。聞いていますか、ラプター」
濃い夜に包まれていた室内に朝が訪れる。
死臭と人外の臭気にまみれた空気が真新しい物に変わっていくのを感じた。
誰もが眠っていると思いたくなるような静寂の中。

もうすぐ夜が終わる。
ノクティルカは美冬の狼狽した声を聞きながら、ごく当たり前の事を実感していた。

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