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3-3 vesper

通り過ぎる風の音は咆哮に似ていた。
線路を挟んだ、対岸の街のネオンに照らされて美冬のシルエットが浮かび上がる。
景色を飲み込む闇の中では、彼女の表情を窺う事は出来ない。
たが、真雪には分かっていた。
彼女は笑っている。
アブソルートと向かい合い、後ろに手を組みながら顔を覗き込んで。
息をするのもためらうほどの重い静寂の中で漏れている笑い声は彼女のものだろう。
「さあ、お兄ちゃん逃げて」
漆黒の中に浮かぶ金色。
無邪気な調子の中に誘うような甘い響きを持つ。
大鎌を持つ死神はヨイの言葉や視線にも微動だにしなかったが、
一挙一動に警戒している事は明らかだった。
わずかに踵が後退し続け、強く柄を握る。
「ヨイが捕まえてあげる」
視界の端で木々が揺れる残像が見える度に過敏に反応した。
凍る景色の中で三人は佇む。
足元に低く立ち込める死臭は嗅覚を麻痺させ、漆黒は視覚を奪った。
中途半端に瓦礫が残るこの場所は遺跡か、墓所を連想させる。
足元にぶつかり、コンクリートの破片が派手な音を立てて転がった。
普段は気にも留めないというのに、ここでは些細な音にさえ敏感になる。

何かを考えているはずなのに、脳裏は真っ白になった。
真雪は呆然と立っている事に気付き、我に返る。
目の前にいるのは紛れもなく美冬だ。
止めなければと焦る反面、どこかで存在を否定する自分がいる。
死臭にまみれ、血に飢えているのは彼女ではない。
美冬はこんな、イレギュラーに似た生き物ではないと。

「おい、みふ……」
「シノノメ!」
唇がわずかにためらった後、思い詰めた口調で名を呼びかけるが。
それを打ち消すように美冬は言葉を重ねた。
笑って振り向く。
「これからお兄ちゃんと遊んでくる! ヨイが遊ぶ所、ちゃんと見ててね!」
弾んだ声で話しながら、その場で跳ねてみせる。
その度に一対のショートソードが鋭い光を放ち、目を射抜こうとした。
今まで無邪気な笑顔を浮かべていた美冬は正面を向くと目を閉じる。
一瞬の静寂。
誰もが固唾を呑んでいる気分になった。
そして。

「踊って。教えてあげる、本当の夜と永遠を」

均衡が崩れる。
数秒間、無言で対峙していた二人が動き出した。
後方へ大きく跳ねたアブソルートを追い、駆け出す美冬。
うなる風と大きく動く空気の中で笑い声だけが聞こえる。
大鎌が接近を拒むかのように大きく一閃した。
だが、それは美冬の鼻先を掠めただけで彼女自身は表情を変える事はない。
髪が揺れる。
唇から漏れる笑い声が空気を変えていった。
「手を出したら無事ではすまねえ。けど、アイツを止めねえワケには……!」
真雪が繰り返しながら、奥歯を強く噛み締める。
淡い光を宿した右手はやり場がないまま強く握られていた。
逃れたいとどこかで思うのとは裏腹に、視線は美冬を追い続ける。
抗おうとしても身体の自由は利かなかった。
『ヨイが目覚めたって……なんだって、こんな時に! 坊主、どうなってるんだい!』
耳障りなノイズがインカムから流れたと思うと、サーペントの怒鳴り声が飛び込んでくる。
いつも冷静な彼女らしからぬ動揺した様子だった。
様々な音が混じり合い、混乱しかける。
「そりゃこっちの台詞だよ。状況は最悪だ。敵はアブソルートってだけでも充分なのに、
美冬はヨイになっちまってて人外まで出てきやがった」
『イレギュラーかい?』
「いや、どうだろうな。死臭に誘われて出てきた野次馬っぽいけど油断は出来ねえ。
数は5匹前後ってところか」
『そうかい。それにしたってヨイが目覚めるたァ運が悪いね』
美冬は手の中でショートソードを回すと逆手に握り直した。
大きく踏み出し、アブソルートに向かって振りかぶる。
周囲に響いた、耳をつんざく金属音が刃物の衝突を物語っていた。
深く眉間にしわを刻むアブソルート、瞬きもせずに憑かれた笑みを浮かべる美冬。
二人が動く度に空気がかき回され、死臭が鼻腔を突く。
「どうにかして美冬を止めたいけど、どうしていいか分からねえ。
アイツに話は通じねえし、下手に手も出せない」
『ああ。ここでスキルなんざ撃っちまったら、お嬢……いや、アンタを含めた全員が
危ない目に遭う可能性があるからね。歯痒いだろうが、絶対に手ェ出すんじゃないよ』
「そうだけど、見てるだけってのも辛いわ。何か方法ねえかな」
『落ち着きな、坊主。ドンパチやるばっかりが戦いじゃない、戦況を見極めるのも大事さね。
いいかい、今のお嬢を止められるのはアンタだけなんだよ』
言い聞かせる言葉に真雪が唇を噛んだままで頷いた。
目は二つの影を追っている。
その視線の先では、美冬が大鎌と鍔迫り合いながら空いている左手を後方へ振った。
アブソルートが素早く反応する。
だが、美冬の手にショートソードはなく。
「……っ!」
「あは、お兄ちゃんハズレー!」
漏れる舌打ち。
そこにあったのは楽しげに動く美冬の指先だった。
視線を動かすと後方よりアブソルートめがけ、飛んでくる光がある。
風を切り裂く音が迫った。
何であるかを視認する前に、それはショートソードだと分かる。
『アンタなら何かが分かるはずだ。こっちも出来る限りの事をしよう、だから』
「分かってるよ。止められるのは、アイツと繋がってる俺だけだ」
大鎌と打ち合わせた刀身を押し返すと、自分に迫るショートソードを
叩き落そうとするアブソルート。
薙ぐのが早いか、それとも。
「ふざけるな、エニグマ!」
怒声と共に大鎌を袈裟懸けに斬った。
同時に赤い飛沫が衣のように飛び散る。
だが、アブソルートは眉一つ動かす事なく。
間近で見つめる美冬もろとも、飛んできたショートソードを薙ぎ払ったが
聞こえたのは地面に金属が落ちる重い音と笑い声のみだった。
斬ったと思ったそれは影であったらしい。
「俺はアイツの相棒なんだからな」
空き地の片隅。
真雪が、にわかに強く吹いた風に髪を乱しながら呟く。
その声は決意に似ていた。

アブソルートの腕から鮮血が地面へと滴り落ちている。
このモノクロームの景色の中で、そこだけが色を宿している錯覚。
アブソルートは視線だけを動かし、傷を一瞥したが
すぐに数メートル前方に立つ美冬を睨んだ。
「うーん、残念。頭を狙ったんだけどな」
表情を曇らせて呟く声は言葉どおりの感情を宿す。
だが、それはすぐに不敵な笑みへと姿を変えた。
美冬が手を横へ伸ばすと、同時に地面に転がったショートソードが引っ張られていく。
意思を持っているかのように。
それとも、彼女の身体の一部に成り果てたのか。
手中に収めると刀身に唇をあてて嬉しそうな表情を浮かべる美冬。
伏せた目が持ち上がって視線が合う度に、アブソルートは得体の知れない不安感を覚えた。
心が掻き乱され、思考が止まる。
「お兄ちゃん、そんなに怖い顔しないで。せっかく遊んでるのに」
周囲には闇に紛れた幾つもの影があった。
対峙する二人に、興味をたたえた複数の視線が注がれている。
話すにも力がいるほどの重い沈黙とは裏腹に、どこかざわついていた。
胸騒ぎが空気に溶けているように感じる。
「笑ってた方が幸せになるんだよ! しかめっ面してると良い事が逃げちゃうんだから」
柄を握ったままで両手人差し指を口角に当てて、持ち上げてみせる。
その言葉一つに、動き一つに恐れがつきまとった。
おどけた口調を投げかけられてもアブソルートは動かず。
鎌を持ち上げたままで、ただ前方を見据える。
「だから笑って。ねえ、笑って?」
美冬が口元を大きく歪ませながら飢えた笑みを浮かべた。
踏みしめられた砂利が小さく鳴き、そして。
鮮やかな緑色が漆黒の中を駆ける。
そして繰り出される無数の銀色のライン。
一見、でたらめに見える美冬の太刀筋は確実に急所を狙っていた。
「うぬに我は倒せぬ!」
食いしばった歯の隙間から漏れる言葉。
今のアブソルートにとって、攻撃を視認しながら防ぐ事で精一杯だった。
目の前の死神は普段の彼女とは別人だ。
攻撃パターンは似ているものの、素早さがいつもの比ではない。
そして何より、少しでも油断をすれば何かに飲み込まれてしまいそうな気がした。
美冬の笑い声だけが辺りに響く。
その声に誘われたのか、人外生物の気配が数を増していた。
大鎌を握り直すと、大きく一歩踏み出し間合いを詰めるアブソルート。
渾身の力で美冬の攻撃を弾き、下から大きく斬る。
「く……っ!」
今まで絶えず笑みを浮かべていた美冬の表情がわずかに固まった。
攻撃は鼻先を掠めたものの、バランスを崩しかけながら右足に力を込めて踏みとどまる。
その隙を狙い、畳み掛けるように至近距離から繰り出される大鎌の攻撃。
次の瞬間、そこにあったのは。
舞う鮮血と、アブソルートの困惑の表情。
そして、瞬きもせずに憑かれた笑みを見せる美冬だった。
「そうだよ、本気で逃げて。そうじゃなきゃ面白くないもん」
こみ上げる感情を堪えきれないのか、喉を鳴らしながら笑う。
アブソルートの攻撃を受けたのはショートソードではなく、右腕。
顔の前に腕を構えた姿勢のまま、うわ言のように言った。
目に宿るのは狂気。
声は笑っているのに、瞳の奥には隠しきれない殺気がある。
闇の中で傷口から流れる赤が浮かび上がって見えた。
この世界に存在するのは、彼女の瞳の色と流れるそれの色だけだ。
「でも、お兄ちゃんは逃げられないよ」
今までより一層強い死臭が立ち込め、夜気と溶け合う。
光の帯となった電車が、視界の端を通り過ぎる様子がスローモーションで見えた。
肌を刺すのは緊張感か冷気か、既に分からなくなっている。
「ヨイは夜だから。夜が味方してくれる限り、ヨイは負けない」
身体を近づけ、柔らかく囁く声。
アブソルートは視線だけを動かして、自分を見つめる顔を睨んだ。
一瞬の空白。
美冬の口から狂気じみた笑い声が漏れるのが早いか。
何かを察知したアブソルートが地面を蹴り、後方へと逃れる。
その瞬間、美冬の表情が鋭くなったと思うと両手に持ったショートソードで
自分の身体の周囲に弧を描くように薙いだ。
それと呼応する、回避しながら大鎌を振りかぶる動作。
描かれる二つの銀色のライン。
だが、どちらに当たる事もなく空を切る。
影が動く度に、辺りに刀身がぶつかり合う鋭い音が響き渡った。
アブソルートはショートソードの攻撃を受け止めながら後方へ数メートル引きずられた。
地面に手をつくものの、顔は前方を見据えたままで。
瓦礫の崩れた音が尾を引きながら消えていくと死んだ静寂が訪れる。
息を殺し、睨み合った。
「……主。今回ばかりは、貴方の考えは甘いと言わせていただこう」
自嘲気味に唇を歪めると小さく呟く。
視線は地面に落ちた赤い斑点と、自分の手に注がれる。
「まさか、ここまでとは」
震える指先を隠すように、手を強く握り締めたアブソルート。
彼の数メートル先には無邪気にステップを踏む美冬のシルエットがあった。


「お兄ちゃーん、まだ鬼ごっこ終わってないよ! 逃げてくれなきゃ捕まえられないってば!」
数メートル離れた位置で睨み合う膠着状態。
美冬が、じれったそうに身体の横で拳を振りながら抗議する。
苛立ちをアピールしているのか、地面を何度も踏みしめていた。
子供そのもの、といった口調に反して全身からは殺気がみなぎっている。
エニグマの証である金色の瞳には期待と戦意があった。
「いーい? 鬼ごっこっていうのはねぇ……」
「エニグマ」
手のひらが血で濡れ、滑りそうになって武器を強く握る。
風でなびいた髪が視界を遮るのも厭わず、アブソルートは美冬を見つめた。
言葉を選んでいるのか、無言の時間ばかりが過ぎていく。
口を開きかけては固く結ぶのを幾度も繰り返す。
「うぬは何故目覚めた? 目覚め、何をしようとしている?」
「そんな事聞かれてもヨイは知らないよ。難しい事、分かんない」
「誰かに呼ばれたのか」
「うーん……分かんない」
唇に人差し指を当てた美冬が首をひねって宙を睨む。
強い口調で問い質され、戸惑っている風にも見えた。
「うぬは危険すぎる。此岸にいてはならぬ」
「ヨイは危ないの?」
「応、うぬは世界を狂わせる。存在自体が罪だ」
「どうして? ヨイは生きてちゃいけない人? お兄ちゃんは生きてていい人?
どうして? 何が違うの?」
空気が変わっていく。
戸惑い、繰り返し尋ねる美冬の声が周囲の空気を掻き回している気がした。
今まで静かだった死臭が暴れるような、得体の知れない不安で胸が騒ぐ。
木の葉ずれの音が何者かのざわめきに聞こえた。
彼女と世界が呼応している、そんな錯覚。
その変化に瞬時に気付いたのは真雪だった。
我に返り、一帯を見渡す。
「美冬、駄目だ!」
咄嗟に出た言葉に真雪自身が戸惑っていた。
思考よりも先に無意識に突き動かされ、半ば怒鳴るように名を呼び続けた。
彼女を呼び戻そうと。
「美冬、落ち着け! 違うんだ!」
「生きてちゃいけないの? みんなは良くて、どうしてヨイだけが駄目なの?」
「あいつの言葉を真に受けるな!」
「ヨイ、居なくなっちゃえって言われた。生きてちゃ駄目って言われた。
どうして? ヨイはどこに行けばいいの、どこなら居ていいの、ここは駄目なの?」
語尾は震え、声から次第に感情がなくなっていく。
一切の音が消え、身体の内側で響く鼓動だけが大きく聞こえた。
逃げ出したい衝動と理性がぶつかり合い、思考を奪っていく。
足に死臭が絡まったのか、動く事すら出来なかった。
アブソルートは呆然と美冬を見ている事に気付いて我に返る。
全身を駆け巡る恐怖心を押し殺して大鎌を構えようとするが、
目の前から押し寄せる死臭と殺気に圧倒されていた。
「意識を保て! あいつの言葉を信じるな!」
「ヨイ、いらないって言われた。みんなそう。ヨイは悪い事してないのに。
みんなと一緒に居たいだけなのに」
「美冬!」
「ヨイは悪い事してないよ。一度だって夜になりたいって思った事ないのに。
そうやってヨイをいじめる奴なんか―――」
美冬の目に怒気がはらむのを見た。
真雪の声も届かず、ショートソードを握り締めたまま。
アブソルートは目線を合わせたまま、動けずにいた。
抗おうとしても瞳を動かす事さえ叶わない。
大鎌から手が滑り落ちそうになるのを堪えるのが精一杯だった。

「死ねばいいのに」

その声で全てが静止する。
唇がわずかに動いただけであるのに、耳の奥に大きく響く。
途端にアブソルートが脱力し、膝が落ちかけた。
「美冬! 駄目だ!」
「シノノメ、止めないで。お兄ちゃんは酷い事言った。
ヨイは怒ってるの。悪い事したって教えてあげるんだから」
「今すぐやめろ! 落ち着け!」
武器を杖代わりにしながら息を荒くするアブソルートに近付く美冬。
正面に立つと顎をわずかに上げて、見下ろす。
「美冬!」
真雪は自分が何故こんなにも狼狽しているのか分からなかった。
何が起こっているかを把握していないにもかかわらず、予感が彼を動かす。
彼女に言葉は通じず、だからと言って触れるのも実力行使もためらう。
止めなければという思いばかりが先走って苛立っていた。
「お兄ちゃん、ごめんなさいってして。ヨイに謝って」
「美冬!」
「……れ、がエニ、マか……」
『君は 夜が 恐いのか』
有無を言わせぬ美冬と、歯を食いしばって意識を保とうとするアブソルートの他に
違う声が響いた。
対峙する二人の死神には聞こえていないのか、眉一つ動かさない。
真雪は背中に悪寒が走るのを感じて、自分に向けられた視線を恐々と辿る。
凍りつく空気。
そこには真雪を見上げるウタカタの姿があった。
『何を 怖がる事が ある? 君も 夜なのに』
遠くのビルの群れや繁華街が無感情に光を灯している。
ブロック塀に囲まれ、瓦礫が散乱する闇の中ではそれらがひどく他人事に思えた。
冷気と死臭が溶け、重く立ち込める。
聞こえるのは苦しげな呼吸のみだった。
『彼女は 君で、 君は 彼女だ』
「謝って、お兄ちゃん」
『君達の 意思とは 関係なく 夜は 朝と 溶け、一つに なる』
アブソルートは視界の端に映る美冬の足元を見たままで呼吸を整える。
渇いた口の中で唾を飲み込み、眉間にしわを深く刻んだ。
これが死を撒き散らすエニグマの力か――アブソルートは心の中で呟く。
地面に突いた大鎌に体重を預け、身体を起こそうとしていた。
「……どういう事だよ」
『歌え。君の 歌は、夜の 終わりを 告げる 暁鶏だ。歌で 世界は 夜を 知り、
歌で 世界は 朝を 知る』
「どういう事だって聞いてんだよ! 意味の分からねえ事ばっかり言いやがって!
こんな時にノンキに歌なんざ歌ってられるか!」
『歌え』
怒鳴り声が響く。
真雪はウタカタの肩を掴もうとしたが、それは虚空に触れただけだった。
一瞬困惑の色を見せたが、すぐに険しい表情になる。
無感情に自分を見上げてくる真っ黒な瞳を睨んだ。
「あーあ、ヨイ飽きちゃった。お兄ちゃんは謝ってくれないし、鬼ごっこやめちゃおうかなぁ」
「第一、俺は歌っちゃいけねえんだよ! もし、誰かに聞かれて生……」
自分と同時に発せられた言葉に動きを止める。
顔を向けた先には、笑いながら前かがみになってアブソルートを覗き込む美冬の姿。
口の中で言葉を繰り返して合点がいったのか、言葉を失う。
彼女は戦う事を『遊ぶ』と例えた。それをやめるという事は、まさか。
ウタカタは歌えと言ったが――真雪は混乱しかけた脳裏で考えを巡らせた。
唇を強く噛んで何もないはずの一点を睨む。
「歌えば美冬が元に戻るとでも言うのかよ! 何で俺の歌なんだ!」
『歌え。君の 歌は、夜の 終わりを 告げる 暁鶏だ』
傍らにいたはずのウタカタは遠く離れた外灯の下に佇んでいた。
だが声は、耳に息がかかる感覚があるほど間近に聞こえる。
強く吹いた風に着物を揺らす事なく、強い視線で物言いたげに見つめていた。
「……今は迷っている場合じゃねえ」
言葉を紡ごうと開いた口を躊躇いがちに閉じる。
美冬に見つめられたまま、魅入られたように動けずにいるアブソルートに視線を向けると
独りごちた。
彼は依然として苦しげな呼吸を繰り返している。
懸命に倒れそうになるのを堪えているのだろう。
時折、膝が崩れそうになるのが見えた。
真雪は乱暴な動作で髪をかき上げると、苛立たしげに大きく息を吐く。
浮かぶ逡巡。
「ヨイ、イチ抜けたっと! じゃあ、お兄ちゃんバイバイ」
死臭が濃くなり、頭痛をもよおした。
美冬が顔を歪めるアブソルートの頬に手を当てる。
口調も微笑む表情も柔らかかったが、瞳だけは笑っていなかった。
目で射殺そうとしているのか、凝視し続ける美冬。
今まで聞こえていた荒い呼吸が静かになる。
アブソルートの大鎌を持つ手が緩んだ、その時。

突然、死臭が和らいだ。

密閉された部屋に風が入り込んだように、死臭が薄れていく。
重かった空気が消えていく感覚。
その中心にいたのは。

『完成した。これで 夜と 朝は 一つに なる』

今にもかき消されそうな声量で旋律を口ずさむ真雪だった。
風の唸る音にさえ飲み込まれてしまいそうなほど遠慮がちであるはずなのに、
辺りの音を奪いながら何処までも響く。
どこか嬉しげなウタカタの声を聞いた気がした。
今までおびただしい殺気を撒き散らしていた美冬が呆気にとられた表情で立ち尽くす。
「……シノ、ノメ?」
うわ言のように名を呼び、俯いたままで歌う死神を見つめた。
黒で塗りつぶされていた周辺の景色が心なしか明るくなった気がする。
雲の隙間から月が顔を出したのかと思いきや、空は分厚い雲に覆われたままで。

肩を上下させて苦しげにしていたアブソルートの呼吸が穏やかになった。
額を押さえながら指の隙間から見える、二人のエニグマの佇む光景に呆けた目を向ける。
圧し掛かるような身体の重さも、意識が遠くなる感覚もなくなった。
戸惑いがちに自分の身体を観察するが戦闘時に負った複数の傷以外は問題がないようだ。
どんな方法かは分からないが、今までの症状の原因が美冬である事は確実だった。
それが、何故突然なくなったのだろうと考える。
彼女の意識がそれたからか?
いや、おそらく彼女の対の存在である真雪が歌ったからなのかもしれない。
アブソルートは周囲を観察しながら混乱した頭を整理しようとしていた。
大鎌を持ち直し、上体を起こす。
そんな彼の瞳には、いまだ殺気が残っていた。

遠慮がちな声は微笑んでいる風に聞こえる。
全ての者が聞き耳を立てているような静寂の中で流れる唯一の歌。
美冬は声に引き寄せられ、半覚醒に似た足取りで恐る恐る真雪の前に立った。
言葉もなく見つめる気配に気付いて、真雪は顔を上げて小さく笑ってみせる。
語りかける声が彼女を包む殺伐とした空気を溶かしていく。
ここにあるのは穏やかな時間だった。
笑いかける顔に安堵し、薄く笑い返す美冬。
一瞬の静寂が訪れる。
「……落ち着いたみたいだな」
「シノノメ、もっと聞きたい! もっと歌って!」
「後で気が済むまで歌ってやるよ。今は、それ所じゃねえだろ?」
じゃれて抱きつきながら、甘える姿に真雪が苦笑した。
彼女がまとっていた死臭や飢えに似た戦意はなくなっている。
だが、問題はそれだけではない。
真雪は笑いながら見下ろしていた顔を上げると表情を引き締めた。
そこに居たのは。
「まだ、やる気かよ。そんなに俺達が邪魔なのか」
大鎌に肩に載せて二人を睨むアブソルート。
言葉通り、彼はまだ戦意を失っていなかった。
わずかな変化にも瞳が動き、引いた右足には警戒感がみなぎっている。
攻撃のチャンスを狙っているのは明白だった。
「エニグマは悪しき芽だ。その存在だけで生死の秩序が崩れる」
「だから狩るってか? 馬鹿の一つ覚えもいい所だな。0か1しかねえのかよ」
「うぬは己の力を何も分かっておらぬ。ヨイの力を見ても尚、そのような戯言を言うか」
「俺達の何も知らねえクセに、でかい口利いてんじゃねえ。
お前に何が分かる? 何か知ってるか? 結局、エクスの都合だろ」
アブソルートの殺気に気付いて、真雪の右手に風を纏った淡い光が宿る。
再び空気が張り詰めていった。
数十メートル離れた距離、無言で睨み合う。
「俺達は別に何かをしようとしてる訳じゃねえんだ。今回も、お前が悪いんじゃねえか。
自分の事は棚に上げて、よくそんな勝手な事が言えるよ」
「うぬらには見えていない物が我等には見えておる」
「ああ、そう。だから何? そうなら人殺してもいいとでも言うのかよ」
真雪に抱きついた美冬が会話を聞きながら、二人を交互に見比べた。
退屈なのか、時折欠伸をしながら聞いたばかりの歌を口ずさむ。
漂う緊迫感とは無縁の表情で。
「だけどな」
真雪の目に一瞬、金色の光が宿った。
声に鋭さが増す。
「売られた喧嘩は残らず買うぞ。お前がその気なら俺は受けて立つ。
此岸の為だか何だかは知らねえけど、自己犠牲っつーのは性に合わないタイプなんだわ」
その言葉にアブソルートは一瞬動きを止めたが、ややあって口を歪めて笑う。
肩を数回柄で叩くと何かを納得したのか数回頷いた。
その動きを真雪は微動だにせずに凝視する。
些細な動きも見逃すまいと視線が動き、神経を研ぎ澄ませた。
「なるほど、覚えておこう」
短く発した言葉。
上空で重い唸り声が聞こえたが、それは飛行機か風の音かは分からず。
音だけが通り過ぎ、沈黙を運んでくる。
「エニグマ」
夜の闇が濃くなるのを感じた。
先ほどまでの全てを飲み込もうとする死臭はないものの、人外生物の臭気が立ち込めている。
短く名を呼ばれ、警戒心を露にした視線を投げた。
「今日の所は一旦退く。先ほどの言葉、楽しみにしている」
「それが賢明だな、この状況はアンタに不利だろう。
そっちがやる気なら相手するけど、そうじゃなきゃ見ないフリしてやるよ」
「……だが、うぬ等は危険因子である事には変わりない。此岸に仇なす物は、
どんな手段を使ってでも消す」
アブソルートは無感情に言い放つと、きびすを返した。
風にコートの裾があおられるのが見える。
遠ざかるにつれて夜に溶け、それぞれの輪郭が曖昧になっていった。
消えていく靴音。
真雪はしばらく固まったままで黒い背中を睨み続けていたが。

「あ、あれ? あれ?」
我に返った美冬が慌てた様子で顔を上げた後、辺りを見渡す。
前触れなく破られる沈黙と変わっていく空気。
今まで密着させていた真雪の身体から離れると困惑気味に眉をひそめた。
彼女の瞳から危うげな狂気は消えていたが、いまだ金色のままで。
「シノノメ、お兄ちゃんがいない! お兄ちゃんは!?」
「アブソルートなら帰ったぞ。あの状態なら倒せなくはねえと思ったが、
そんな無理に……」
「どうして!?」
「どうしてって、帰るっつってんのを引き止める必要はねえだろ。
藪蛇な展開は避けたいしな」
静まり返った場所に美冬の悲鳴に似た詰問の声が響く。
半分泣き顔の状態で真雪の腕を掴むと激しく前後に揺さぶった。
「おい、やめろって。お前怪我してんのに、そんな動いたら余計に傷が開くぞ」
「ヨイはお兄ちゃんと遊びたかった! 遊びたかったのにー!」
「そんな怪我で遊ぶもクソもあるかよ! ほら、血だって止まってねえじゃねえか!」
「やだ、遊ぶ遊ぶ遊ぶ! まだ遊びたいの!」
喚きながら地団駄を踏む身体を真雪が背後から押さえる。
今の美冬は戦闘時とは別人で、子供そのものだった。
こうしている間にも彼女の右腕には血が滲み、手に赤い筋がある。
傷は深いのかもしれないと、ため息混じりに思った。
その証拠に右腕には脈打つ痛みが伝わり続けている。
「ほら、俺達も帰ろう。早く手当てしなくちゃ」
「ヨイはまだ帰らないもん!」
「駄目だっつーの! ったく、エニグマってどんだけ面倒な生き物なんだよ……」
天を仰ぎながら力なく呟く。
空に広がるのは相変わらずの曇天。
間近からの抗議の声を聞きながら、真雪は静かな夜が再び訪れるのを実感していた。

「こちらレイブン。美冬はエニグマのままだけど、とりあえずこれから帰るわ」
『坊主、アンタ途中からインカム切るんじゃないよ! こっちはどれほど心配して……!』
「やだ、離して! はーなーしーてー!」
「悪い、気が付いたら接続切れて……だー! もう、とにかく帰る!」

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