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3-3 彼岸

19時20分。
迷路のような住宅地に響く靴音が二つ。
どの家にも灯りがともり、人の気配を感じる。
夜の闇はどこにも等しく訪れ、すべてを包んでいた。
「場所、分かる?」
美冬が隣を見上げた。
声音は普段通りを装うものの、どことなく沈んでいるように感じる。
真雪は彼女を一瞥すると正面を向き静かに頷いた。
「ああ、さっき地図見てきたから大丈夫だ。それにある程度は匂いで分かる」
「そうだね」
目的地へと歩みを進めるにつれて鼻腔に僅かな死臭が届く。
それは死が持つ独特の匂いであり、死のある場所には必ず漂うもの。
無意識のうちにため息をついた。
「美冬」
「ん?」
「悪かったな」
突然投げられた言葉に美冬は意味を捉えかねて黙った。
何を指しているのか分からず、ただ声の主を見つめる。
「どうして謝るの?」
「お前、ずっとヘコんでるみてえだからさ」
「真雪のせいじゃないじゃん」
軽い抗議を含む声。
等間隔で並んだ街灯がアスファルトを無機質な光で照らしていた。
真雪が風に乱される髪を手で押さえながら、美冬の方を向く。
「俺が親父にあんな事聞いたから、お前が傷つく羽目になっちまっただろ。
知りたくない事まで知ったっつーかさ。悪い事したなって」
自己嫌悪がにじむ。
「結局、余計ヘコませた形になったから」
視線をそらし、電柱の住所表示を眺める横顔。
美冬は驚いた表情から苦笑を浮かべる。
「気にしすぎだよ」
俯き気味に浮かべる笑み。
顔を上げるとぶつかる視線に目を細めた。
「あたしは大丈夫。ていうか、全然実感もないし何が変わった訳じゃないから
そんなこと言えるのかもしれないけど」
言葉を切り、訪れる沈黙。
「真雪もいるしね」
美冬が自分の足元を見つめ、呟く。
湿気混じりの風の中に雨の香りを嗅いだ気がした。
天気予報はなんと言っていただろうか。
夜に紛れて分からなかったが、空には厚い雲が広がっている。
「あたし一人だったらどうだったか分からないけど
真雪がいるから大丈夫な気がする」
「そっか」
「根拠はないんだけどさ」
照れたように微笑む。
溝のような狭い川に沿う道を後ろに手を組み、歩く。
耳に届く水の流れる音。
突然、足音が止まった。
それにつられて美冬も足を止めると怪訝そうな視線を向ける。
「あのさ」
真雪が向き直り、迷うような表情を浮かべた。
言葉を選んでいるのだろうか。
視線がせわしなく動く。
「うん」
「あんまり無理するなよ」
「無理?」
「うまく言えねえけどさ。気ィ遣いすぎるのもいい加減にしろって話」
真雪はその言葉を残して再び歩き始めた。
呆気にとられた表情を浮かべていた美冬が慌てて真雪の背中を追いかける。
「へ? 何の話?」
「分かんねえならいい」
「どういう意味?」
「だから」
隣に並び、見上げてくる美冬の頭をやや強めに撫でる。
髪の毛を乱す手。
「ヘコんでる時、無理して元気なフリとかする必要ねえって事だよ」
「やめてよぉ。髪の毛ぐしゃぐしゃになっちゃう」
「ぐしゃぐしゃにしてんだよ」
軽い抗議に笑いを含んだ声が答える。
目を合わせて同時に微笑んだ。
「ありがと。でもね」
手櫛で髪を整えながら美冬が目を伏せる。
真雪が見下ろすと、いたずらっぽい視線とぶつかった。
「それはこっちの台詞だよ」
「あ?」
「真雪だって無理してるじゃない。本当は辛いのに人の心配ばっかしてさ」
驚き、見つめる。
そして視線をそらした。
「……ラプターのくせに生意気だ」
「うっさい。人の心配するなんて百年早いんだよ、レイヴン」
吐き捨てるような、ため息混じり言葉と笑う声。
どこからか漂う調理をしているらしい香りに、今の時刻が夕飯時である事を思い出す。
すべての景色が夜に溶けて紛れる中で
家々の灯りだけがまるで魂のように浮かび上がって見えた。
瞳を細め、その灯りを眺める。

「いつまで経っても慣れねえなと思ってさ」
空を仰ぎ。
スラックスのポケットに手を突っ込んだまま歩く。
歩みを進めるにつれて死臭が一段と濃く、強くなっていく。
知らず知らずのうちに顔をしかめた。
「死神のクセにこんなに人が死ぬのが辛いとかどうなんだ、俺。
分かってんだけどさ。もっとドライになんなきゃいけねえっつーのも、
こんな風にいちいちヘコんでたらキリがねえのも」
「真雪」
「マジで俺ってダメね」
自嘲気味に口の端を上げた。
美冬は唇を噛み、首を横に振る。
「そんな事ないよ。だって仕方ないもん」
腕を掴む華奢な手。
「割り切ることが出来たら今回だって辛くならずに済んだかもしれねえのに」
「そんな事、ない」
ゆっくりと言い聞かせるように美冬が言った。
覗き込んでくる翡翠色の瞳は何かを訴えるように。
「真雪は優しいからだよ。だから、そんな風に思っちゃうんだ」
「優しくなんかねえって」
「あたしの勝手な意見だけど、それでいいと思うの。
真雪は辛いかもしれない。でも、考えはすぐになんて変えられないから。
それに今回は知ってる人なんだから辛いのは当たり前だよ」
その言葉に小さく笑った。
「美冬」
「ん?」
「ありがとな」
美冬が困ったような微笑を浮かべたままで曖昧に頷いた。
視界の端に、電柱にもたれかかるようにしてモノクロの看板が立っている。
『川島家 通夜 十九時三十分~』
いつもなら他人事に思える表示も、今日ばかりは心に暗く影を落とす。
その看板の示す矢印の方向に目を向けると、
静まり返った家々の中で一つだけ、異質な場所があった。
「少し急ぐか。もう始まってるし」
「そうだね」
非現実的な景色だった。
塀を隠すようにして並べられた色彩のない花輪。
眩しいほどの照明で照らし出された家。
そこがチャリオット――川島良一の自宅なのだろう。

美冬が急に立ち止まる。
数メートル歩けば通夜の会場だという地点で。
「美冬?」
不審を浮かべた声が名前を呼ぶが、美冬は何かに警戒していた。
唇を噛んで家を見据える。
真雪も彼女の隣に並び、気が付いた。

イレギュラーの臭気。

「真雪」
「ああ、言いたい事は分かる」
「嫌な匂いが二つあるよ」
死臭と敵の気配。
それらは溶け合い、嗅覚を麻痺させるほどの強い臭いを放っていた。
無意識のうちに顔が歪む。
「これは酷いな。こんなにくせえの、滅多にねえぞ」
「うん。あたし、なんか気持ち悪くなってきた」
「大丈夫か?」
美冬が口を手で押さえたままで数回頷く。
つばを大きく飲み込むのが見えた。
「イレギュラーが出たらどうする?」
「やるしかねえけど他にもチェイサーはいるだろうからな。
とりあえずは様子見って所か」
真雪は周囲に視線を巡らせた後、美冬の背に触れる。
「そんな事考えたくねえけど……まあ、とりあえず入ろう」
「そうだね」
足元から立ち上る悪寒が全身を駆け巡る。
正体不明の胸騒ぎ。
入るのを拒む意識に抗い、二人は敷地に足を踏み入れた。



「ほとんど此岸の人間か」
庭の隅。
目の前に広がるのは通夜の光景。
焼香を済ませ、人の輪から外れるようにたたずみ美冬に耳打ちした。
美冬が頷くのが見える。
幕が張り巡らされた庭には十数人の人影があった。
庭に面した居間は開け放たれ、そこで通夜が執り行われている。
庭と広間を区切るように設置させた焼香の場。
今もなお、焼香をする人の姿は絶えない。
沈痛な静寂を裂くようにして聞こえる低い読経の声が周囲に響き。
重くのしかかる空気がここには漂っていた。
「真雪」
離れた位置に見える、うなだれて座る親族達を見つめたまま美冬が囁く。
「さっきから、ずっと見られてるんだけど」
真雪が視線だけを動かして背後に視線を投げる。
二人の背後には幕があるだけで人はいない。

真雪にも分かっていた。
この会場に入ってからずっと違和感がある。
何者かの気配と射るような強い視線。
それはおそらく背後から。
死臭とイレギュラーの臭いに身を潜めながらこちらを伺っている。

「背後だ」
小さな動作で頷き、唇を動かした。
ため息のような声は読経にかき消されそうになる。
「気配は一、二。二つ」
「ああ」
「死臭に誘われただけならいいんだけどね」
美冬が睨むように前を見据えた。
まるで周囲は時が止まったように動かず、言葉もない。
世界が死んでしまった気さえする。
「普通の奴らもいる。ここでやるのは避けてえな」
目を細め、美冬の耳元で呟く。
「相手もお利口さんなら助かるんだけど」
この言葉は背後に向けての言葉。
真雪が美冬の背中に腕を回すと自分の方へ軽く押した。
驚いたように見上げる視線に真顔で頷く。
「俺の前に立ってろ」
美冬が数歩移動して真雪の前に立つ。
彼女を正体不明の目から避ける為だが、おそらく気休めにもならないだろう。
「……でも、変だ」
「何が?」
「はっきりと人外かどうかも分からねえ。普通だったら、それくらい分かりそうなもんだろ?」
美冬が振り向き、首を縦に振った。
穏やかに揺れる髪とは裏腹に、その表情は険しく。
「人外だって言われればそうだし、違うと言われ……」

言葉をかき消したのは耳を突き刺すような音。
体の中を掻き回すかのような耳鳴り。
ただ目を見開き、顔を歪めた。

すべての音が飲み込まれる。
歯を強くかみ締め、眉間に深く刻まれるしわ。
「ぐ!」
声が漏れる。
痛みを伴う耳鳴りは収まることなく、真雪は片耳を抑えた。
「な、にこれ……!」
自分の近くで美冬の絞り出すような声がする。
そこで気が付いた。
この音は自分以外にも聞こえている事に。

周囲を見渡すと、やはり他の人間にも聞こえているらしい。
耳をおさえる者、辺りを見渡す者と反応はさまざまで。
耳鳴りはやむどころか次第に強さを増していく。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫、じゃない」
美冬は身体を曲げ、頭を抱える。
真雪が美冬の肩に手をかけたままで辺りに視線を巡らせた。

こんな時に敵に襲われては被害が大きくなる。
背後には二つの気配、イレギュラーの臭い、監視されている視線。
そして耳鳴り。
これらは何か関係でもあるというのか。
直感が何かを叫んでいるが、鋭い音に思考が麻痺しかける。

注意深く観察していた真雪の視線が止まった。

庭にいる人間は一様に音に気をとられているが
屋内にいる親族の様子がおかしい。
こちらに背を向け、身を乗り出して何かを見ている。
音など聞こえていないのか。
それとも音よりも気になるものでもあるというのか。
「……何だ?」
自然と言葉が漏れる。
息を殺して、瞬きもせず目を凝らした。
気が付くと波が引いていくように耳鳴りが消えていくのを感じる。
美冬が抱えるように耳を押さえていた手を解き、身体を起こした。
それと同時に周囲も平静が戻ってくる。

しかし。
読経は再開されることなく、室内の人間達はひたすら注視していた。
棺を。

「どうかしたの?」
美冬が視線を逸らそうとしない真雪に疑問の声を向ける。
「様子がおかしい」
「え?」
緊迫した声に美冬が眉をひそめた。
真雪の視線をなぞって彼女も目の前の光景を見つめる。
「なんなんだ、あれは?」
「何かあったのかな」
白菊に囲まれた祭壇を囲む人々。
葬儀は中断され、経を読み上げるべき僧侶ですら立ち上がり棺を凝視していた。
静まり返る室内に反して庭にはざわめきが広がる。
明らかにおかしい。
葬儀社の社員らしい人間が室内へと何事かと問うが、答える声はない。
気がつけば手に汗をかいていた。
得体の知れない不安に似た予感めいたものが打ち寄せる。
真雪は目を離す事が出来ないまま、ただ立ち尽くした。
背後に感じる視線も気配もすべて忘れ。

音が鳴る。
何かを落としたような小さな音。

聞き逃しそうなほどのそれが、離れた位置に居るはずの真雪にも聞こえた。
幻聴かと心の中で呟く間もなく。
再び乾いた音が聞こえた。
短く一回、間隔をあけて再度。
「何だ?」
どこからか漏れた言葉。
視界から動くものが消えた。
木々の揺れる音もすでにただ沈黙を引き立てるものでしかない。
音は木を叩くような音に変わる。
次第に間隔が狭まり、音も大きくなっていく。
まるで鼓動と連動しているかのようだ。
木を叩く音。
ノックするような。
内側から聞こえる。

棺の。

「棺、から……聞こえ、る」
その声は棺の近くに立っていた男が呟いたものだった。
各所で短く声が上がる。
戦慄する周囲。
その中でも音は消えることなく、ひたすら打ち鳴らされていた。
誰もが目を見開き、見守る。
動く事など出来ない。
「何だ、これは」

突然、棺全体が揺れ始めた。
そこだけ地震が起きたかのように。
棺が暴れる。
激しい音が恐怖感を煽った。

囲んでいた人の輪が乱れ。
座り込む者、後ずさる者、更に覗き込む者が見える。
各所で恐怖に憑かれたような声が上がった。


突然。
棺が鳴動した。
破裂するような音と共に見えた、白い衣。
起き上がる影。


金切り声に彩られた周囲。
人垣が一気に崩れた。
呆気にとられた人々の真ん中に、棺の扉が落ちる。
すべてがスローモーションに写った。
空白になる脳裏。
瞬きを忘れた瞳。
ただ目の前にあるのは。
棺に手をかけ、立ち上がる白装束。
肩で息をする長身の男の顔色は紫に近い。
「な」
やっと搾り出した声は言葉にならなかった。
真雪は口を半分開いたまま、微動だにせず。
「一体、何が」
男が動くたびに周囲の人間が退く。
大きく響く畳を歩く音。
うつむき加減の顔からは表情は見えないが口の端が笑うようにゆがんでいるのが見えた。
男以外、死んだように動きを止める。

目の前を歩いてくる男は間違いなくチャリオットだ。
彼は死んだはず。
何よりも強く放たれる死臭がそれが証明している。
けれど目の前の光景は。
何故動いている?
何故笑っている?
何故――……


「避けろ!!」
その甲高い怒号は真雪のすぐ前から発せられた。
誰もが我に返った、その声で。
状況が飲み込めず次の瞬間見たものは。

舞い散り、噴出す鮮血。
腕を押さえて倒れる黒装束の男。
笑い、大型ナイフを持った腕を掲げる白装束の男。
赤く染まる畳。
モノクロの中に生まれる赤。


「彼岸より帰ってきたぞ。皆歌い、踊れ」
歯を食いしばり、目を見開いてチャリオットは笑った。
ナイフの血が腕をつたい白装束を染める。
耳をつんざく狂ったような叫び声と乱れる足音の中、
真雪と美冬はただ目の前を見つめた。

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