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20. Ordinary World

『世の中の旬の話題をお届けする、フレッシュネス・トピックスのコーナーです!』
夜が更けるにつれて賑やかになっていく繁華街が窓の外に広がっていた。
鮮やかな光と音の洪水が閉ざされた窓の隙間から忍び込んでくる。
そのうるさいほどの音量は、つけっ放しのテレビの音を飲み込む勢いだ。
オフィス家具が整然と並ぶ、物寂しい印象さえある比良坂事務所の一角。
応接セットに死神達は顔を揃えて座っていた。
テーブルの上には隙間もないほどに置かれた食事がある。
温かな香りが部屋中に充満していた。
『デビュー目前で亡くなった、ある路上ミュージシャンが今話題になっています。
動画サイトで350万回再生され、インディーズレーベルとしては異例の――』
「ノク、椎茸残さないで食べな」
『遺作となった《ありがとう》を、自身も路上ミュージシャンであった
人気デュオ・アーリーバードがカバーをした事も話題になった一因であるようです』
「……嫌いな人間に食べられるより、好きな人間に食べてもらった方が
椎茸としても幸せだと思うんですよね」
茶碗を持ったままで静止する美冬の耳をすり抜ける、ノクティルカとサーペントのやり取り。
笑いの混じる声に反応する事なく、テレビを凝視していた。
ただその眼差しはどこか上の空で脳裏では違う事を考えているようにも見える。
「そんな事考えなくても椎茸は充分幸せだから、大人しく食ったらどうだい。
そんなんじゃ大きくなれないよ」
「これ以上、大きくなりたくありません」
苦笑気味のサーペントの向かいに座ったノクティルカは顔をしかめてみせる。
そこに近付いてくる靴音。
テレビの前を黒いスーツが横切った。
「何だよ、全力でみじん切りしたのに食えねえってか。ほれウォークライ、飯のお代わり」
「ありがとう、お母さん」
「お母さんじゃねえよ」
真顔で茶碗を受け取りながら言うウォークライに真雪が眉をひそめる。
そして視線は美冬を盗み見るように一瞥した。

ちょうど一週間前から美冬はずっとこの調子だ。
元気な振りをしているのだが、何かの拍子に黙りこくる。
真雪には原因が分かっていた。
チャリオットとの戦闘――そして、自らの手でチャリオットを葬ったという事実。
日常的にイレギュラーを狩っていても対人間では精神的なダメージも大きいらしい。
例えそれが一度死に、生き返った『もの』であったとしても。

「美冬、あんまり食ってねえな。食欲ないのか?」
「え?」
投げられた窺う視線に気付いて弾かれた反応を見せる。
一瞬驚いた色が浮かび、直後に取り繕う表情をした。
くすぐったそうに肩をすくめて照れ笑いを作る。
「あ! あは、そんな事ないよー? ちょっとテレビに夢中になっちゃってた。
ハンバーグもミネストローネも美味しい!」
「ん、そっか」
「今日のハンバーグ、ふわふわ! 中にチーズ入ってるんだね」
美冬はハンバーグの欠片を口に入れると、幸せそうに目を細めた。
『何もない』とアピールするように日常の顔を装う。
周辺には食器の音が穏やかに広がっていた。
曖昧に微笑んだ真雪は何か言いたげな視線をダンデライオンに向ける。
交わされる視線、無言の会話。
どちらからともなく苦笑に似た表情になった。
「それにしても」
水の入ったグラスを手に取ると、ダンデライオンはゆっくりと瞬く。
自然と一同が顔を向けた。
「あの件から一週間が経った訳だけれど、平穏な日常が戻ってきたようで安心したよ。
突然死の被害も聞かなくなったし、天使になりかけていたレイヴンもこうして無事だ」
「そうですね」
天井から吐き出される空調の風に触れて、観葉植物が揺れるのが見える。
艶やかな葉の表面にネオンの光が写っていた。
「それにしても、天使のベールはいつ消えたんでしょうね。ミッションが終了して、
私達と合流した時には既にありませんでしたから」
「開始時にはあったな、確か」
「そうだったね」
誰もが箸を止めて、記憶の糸を手繰り寄せるように視線を宙に漂わせる。
交わされる言葉はすぐに途切れ、無言になった。
「ああ。増浄寺の前で会った時にゃア、まだあったねェ。するってェと」
それまで汁椀に入ったスープを飲んでいたサーペントが片眉を上げる。
言葉は続かず、ハンバーグを箸で分割している美冬へと顔を向けた。
他の者達も同じく彼女を見つめる。
「え、え? 何?」
視線が集中している事に気がつき、口を開いたままで目を瞬かせた。
戸惑い気味に首を傾げる。
「ラプターは覚えていないかな?」
「……な、何を?」
「こいつ、ハンバーグに夢中で話聞いてなかったな」
眉間にしわを寄せて見つめてくる視線に苦笑すると、真雪が肩をすくめた。
「だから俺の天使のベールはいつ消えたんだって話だよ。覚えてねえか?」
その言葉に、美冬が更に首をひねる。
箸を口元の辺りで静止させて咀嚼を続けていた。

突然。
テレビの音ばかりが流れる静かな室内に、けたたましい音が響き渡る。
正体は電話の着信を知らせる電子音。
誰からともなく顔を見合わせた。

「あ、ノクティルカいいよ。俺が出る」
箸を置き、腰を浮かしかけたノクティルカを手で制して真雪が立ち上がる。
鳴り止まない電話に返事をしながら、事務机の群れへと向かった。
髪をかき上げる仕草。
眠っているような景色の中で黒いスーツが動く。
「へいへーい。比良坂事務……なんだ、ワーズワースかよ。電話出なきゃ良かったな」
机のへりに腰をかけた真雪が受話器を耳に当てて笑った。
それを見ていた美冬は、ダンデライオンに顔を向けると口を曲げる。
「よく覚えてないんだけど、東京タワーにいた時点で見えてなかったかも」
「ふむ」
「なるほど。でしたら、やっぱりあの時でしょうか」
「何言ってんだよ、こっちはメシ食ってて忙しいの。他当たれ、他」
軽く頷くダンデライオン。
思案の中で交わされる会話に、電話に向かって手を振る真雪の声が重なった。
気が付くと彼は机の上でうつ伏せに寝そべる格好になっている。
「あの時って?」
「おだててもダーメ。つうか、変な仕事とか緊急ばっかりウチに回すんじゃねえよ。
ラプターが言ってたぞ、いつかシメるって」
目の前と遠くから聞こえるやりとりを気にする様子もなく、ウォークライは食事を続けていた。
窓の外の漆黒に半月が浮かぶ。
だが、それも地上からの光で霞んでいるように見えた。
眠る事や夜を拒んでいるかのような街。
「ウチの凶暴なお姫様が釘バット持って行くかもしれねえから気をつけろ。
……なに、来てもいいから緊急やってくれ? お前ら、相変わらずチャレンジャーだな」
「東京タワーに行く前にちょっとした出来事がありまして。ねえ、所長?」
「そう。ラプターがフィーバーしたんだったね」
「ちょっと、何それ!? フィーバーって何!?」
大きく飲み込んだ後、立ち上がる勢いで声を荒げる。
慌てる様子とは裏腹に、ソファに座る他のメンバーは感慨深げに頷き合った。
身を乗り出し、不満そうに頬を膨らませる美冬。
目が合ったサーペントは口元をナプキンで拭きながら笑みを漏らす。
「アンタが天使のベールをはがしたってェ話さね」
「あたしが?」
「そうだよ、僕のかわいい天使。やっぱり君は奇跡のような子だった。
有言実行。レイヴンに取り憑いた死神でさえも追い払ってしまう」
伏せて微笑んでいた深い青の瞳が持ち上がり、見つめた。
正面にあるのは言葉の意味を捉え損ねた不思議そうな顔。
その様子に一つ、頷いてみせる。
「それってどういう……」
「親父。さっきの電話、ギルドからだったんだけどさ。
どうしてもって泣きつかれたから、これから緊急の討伐行って来るわ」
戸惑った声に重なる靴音とため息。
電話を切った真雪は背後を指差しながら眉をしかめて言った。
美冬が身体をひねって見上げる。
「そうか。場所は?」
「近くだよ、向こう口の工事現場だとさ。10分くらいでいけそうな距離だ。
Dマイナスのザコだって話だし、すぐ終わらせてくる」
「食事の途中に申し訳ないね。では、行ってくれるかい?」
「あ、あたしも行く!」
箸と茶碗をテーブルに置いて美冬が立ち上がると、視線が集中する。
そこには気遣う色が滲んでいた。
思い出したように時計の秒針の音が聞こえる。
「別に俺一人でも平気だから、お前はメシ食ってろよ」
「やだ、一緒に行くもん」
数秒遅れて真雪が顔をしかめた。
窓の外の喧騒を一瞥して後頭部を指先で掻く。
言葉を選んでいるのか、黙り込んだ。

真雪は今の時点で美冬に討伐をやらせるべきではないと思っていた。
あの日以降、彼女は戦闘を避けている。
愛用しているショートソードを打ち直しの為に他人に預け、討伐も休んでいた。
ここでイレギュラーを倒せば、あの光景を思い出してしまうのではないか。
また辛い顔を見る事になるのは明白で、それは避けたい事だった。

「んな事言ってもなぁ。前回の疲れ、まだ残ってるだろ?
それにショートソード……カルビとロースだっけ。アレ、修理に出してんじゃねえのかよ」
「違う、ユッケとビビンバだよ。武器なら代わりのあるし問題ないって」
「そういう問題じゃなくて」
深く息をついて苦い表情を作る。
無言が静寂を呼んだ。
窓の隙間から嬌声や誘うような夜気が流れ込む。
この景色で動くものは何もない。
「……分かったよ」
絞り出す言葉の端々に微塵の苛立ちが浮かんでいた。
乱暴に髪を掻くと、真雪は腰に手を当てる。
「すぐ出るから用意して来い、ほら」
その言葉に美冬が笑みを顔に広げた。
何度も大きく頷いて、口元で両手を合わせる。
「用意してくる! ホントに待っててよ!?」
「待ってるっつーの。5分以上は待たねえからな」
「うーちゃんも、あたしのゴハン食べちゃダメだからね!」
「善処する」
軽く睨まれてウォークライは箸を持ったまま真顔で親指を立ててみせる。
誰もが美冬につられて笑顔になっていた。
重くなりかけた空気が軽くなる。
小柄なシルエットが机や棚にぶつかりながら、慌しい靴音を部屋中に振りまいた。
目で追いながら息をついて笑う。
「落ち着きないねェ、お嬢は」
「本人が行きてえっつーんだから行かせてもいいだろ。多少心配ではあるけど」
『――の報告がなかった事から厚生労働省は突然死問題の収束を宣言しましたが、
昨日になり新たに一件の突然死が確認され……』
「ラプターなりに結論が出たのかもしれないね。彼女は大丈夫、僕らが思っているより強い子だよ」
美冬の消えた方向を見ながら言葉を交わした。
テーブルには取り残された食事。
テレビからは誰の耳にも届かないニュースが垂れ流されている。
穏やかな微風が笑うように通り抜けていく。
「真雪、まだ行かないでよ! 待っててね!?」
「んな事言ってるヒマあったら早く用意しろよ! マジで置いていくぞ」
隣の部屋へ通じるドアノブを掴み、足踏みをしながら美冬が念を押した。
呆れて怒鳴る声に笑い声が生まれる。
壁越しに美冬が動き回っている気配を感じた。
外に広がるのは深くなっていく夜。
窓の方を眺める真雪の顔から表情が次第に消えていく。
それは何かを考え込んでいるようにも見えた。



ただ暗いだけの空に抗う、目を刺すほどの街の明かり。
賑わう大通りから一本脇道に入れば、それらは消えて静まり返る。
住宅街に明かりはあるものの人の気配は全く感じなかった。
日常を捨てて、全ての人がどこかへと逃げたのではないかと錯覚してしまう。
「真雪」
聞こえるのは二つの靴音と犬の吠える声。
名を呼んでも返事はなく、空しさだけが残った。
美冬は不審そうに目の前を歩く背中を眺める。
「ねえ、真雪ってば!」
わざと足音を大きくしてみせるが、真雪は時折電柱の住所表示を一瞥するだけで。
どうやら聞こえていないらしい。
苛立ち気味にため息を強く吐くと、勢いよく腕を引っ張った。
「うぉ、驚かすなよ」
「『驚かすな』じゃないわよ! どうかしたの?」
「何が」
「事務所出てからずーっと黙ったままじゃん! 考え込んでるみたいだし、
話しかけても全然聞いてないしさ」
まるで夢から醒めたような表情の真雪は、強い口調を向けられて目を大きく瞬かせる。
ややあって視線から逃れたいのか、顔をそむけた。

内心ため息をついた美冬は探るように見上げる。
事務所を出てから真雪はずっとこの調子だった。
何かを考え込んでは押し黙り、返事をしても上の空。
腕に触れた瞬間に自分の中に迷いに似た感情が飛び込んできたが、
具体的にそれが何かは分からない。
 やはり彼もチャリオットの死について悩んでいるのだろうか。
誰かと一緒にいる時は明るく振舞っているが
何かの拍子に悩んでいる事が分かり、美冬はその度に心配になっていた。

「んな事ねえよ。ちゃんと話聞いてたって」
「嘘! じゃあ、さっきの質問に答えてみてよ」
挑むように顎をわずかに上げて、睨む真似をする。
真雪は、かまをかけられた事に気付かない様子で虚空を睨んだ。
唇を結んで軽く唸る。
「え?あー……うーん。確か小野妹子だった気がするけど」
二人はお互いの顔を見たままで、どこまでも続きそうな直線の道を歩いていた。
両側には家が隙間なく連なっている。
わずかな間。
「はぁあ!? 小野妹子って何よ! っていうか、やっぱり話聞いてないじゃん!」
「いって、殴るなよ! いや、だって仕方ねえだろ!? 考え事してたんだから!」
「逆ギレすんの!? ふざけんな、バーカ!」
怒鳴りながら何度も叩こうとする手から身体をそらして逃れる真雪。
周囲に不気味なほど二人の声が響いていた。
上目がちに見据える美冬に手のひらを向けてなだめようとする。
ため息が同時に漏れた。
「だから、どうしたのって聞いてるじゃん。何をずっと考えてんの?」
「そこを左な」
「話をそらすな、くそったれ」
「そらしてねえよ。ちょうど曲がる所だったんだっつーの」
顎で示された先を左折すると十数メートル先に高く張り巡らされた白いフェンスが現れる。
そこに貼られていたのは高層マンションの広告。
視線で辿るように仰いだ先には空へと伸びる骨組みがあった。
天上の月に照らされてシルエットが浮かび上がる。
その様子は遺跡にも似ていて、思わず目を奪われた。
美冬が窺うように隣を見ると頷く顔がある。
「くせえし、ここで間違いねえな」
「どっかに隠れてる? 微妙に匂いが遠いよね」
「ああ、中で待たせてもらいましょ。向こうだって俺らが来たってすぐ分かるだろ」
美冬の背を軽く押しながら言うが。
「……なんで足、突っ張ってんだよ」
「また話そらした」
「だから、そらしてねえって。こんな所で立ち止まってんの見られたら怪しまれるだろ」
足に力を入れて現場内に入る事を拒んでいた美冬を半ば強引に押し込む。
不満そうな顔が口の中で何事かを呟いていたものの、渋々といった動作で歩みを進めた。
その先には獣を連想させるイレギュラーの臭いと何者かの視線。
暗闇が広がっていると思われた、その空間は月明かりが降り注いでいる。

「ここならお客さんがどっから来ても見えるだろ」
真雪は辺りを見渡すと軽く頷いた。
そこは骨組みの片隅。
後方には土地を囲むフェンスが間近に迫り、背後から敵に襲われるという可能性は低い。
投げ出された鉄骨の影など死角はいくつもあるが、それはどの地点でも同じはずだ。
地面に出来た影を注意深く観察した。
「で、さっきの話の続きだけどさ。何をそんなに考えてんの?」
「……まだ、それを蒸し返すのかよ」
「蒸し返してないもん。真雪が答えないのが悪いんでしょ」
鉄骨に背をつけながら唇を尖らせる。
いまにも口笛を吹き出しそうな表情だ。
真雪は肩で大きく息を吐くと、重い動作で髪をかき上げた。
「何でもねえって」
「そこまで隠すのはチャリオットの事だから?」
美冬の問いに動きが止まる。
顔に浮かんでいた苛立ちは姿をひそめ、わずかに驚いた表情で目の前の顔を見つめた。
何かを探すように揺れる瞳。
「そんなんじゃねえよ。チャリオットの件は自分の中でちゃんと整理したし。
思う事は色々あるけど、俺はどうすればいいのか分かってるから」
気付けば辺りは青白い光で満ちている。
それが月光のせいだと気付くのに時間が必要だった。
声は静寂を引き立て、無意識のうちに小声にする。
「違うんだ」
「じゃあ、何で?」
念を押した言葉の語尾に強い口調で発せられた声が重なった。
美冬の視線は、まるで相手を責めているようにも見える。
華奢な手が真雪の腕を掴んだ。
「あたしは真雪が心配なの。いっつも人の事ばっか気にして、自分の事は後回しでさ。
辛いって誰にも言えないで潰れそうになってんじゃん」
「美冬」
「相談してくれないのは、あたしが力不足だから? 言っても無駄だから?」
「……美冬」
腕を揺さぶりながら俯いた美冬は唇を噛んでいた。
名を呼んでも聞こえていないのか、返事をせずに。
真雪はため息をついた。
その顔に浮かぶのは苦笑に近い笑み。
「なんか、逆に心配させちまってるみてえだな」
肌に触れる風が夜の匂いを運んでくる。
視界に広がる鉄骨が景色を非日常にしていった。
その向こうに見える、穴のようにも見える月を見上げて真雪は小さく肩をすくめる。
「ごめん、でも本当に違うんだわ。気持ちはすげえ嬉しいけど」
無機質で生気のない物ばかりの空間に二人はたたずむ。
一見すると、どこにいるかも分からないほど片隅で。

「これは美冬ちゃんの精神的負担を軽減する為にも言った方がいいかね」
「え?」
「ま、いずれ言わなきゃいけない事だと思ってたしな」
数秒の沈黙の後。
真雪は顔を違う方向に向けながら呟いた。
そして、意を決したように軽く息をつく。
美冬は疑問と怪訝の表情を浮かべていた。
何度も脳裏で言葉の意味を考えているらしく、眉間にしわを寄せたまま一点を睨んでいる。
その様子を頭上の顔は笑った。
「ここまで言っても気付かない?」
「何が?」
その言葉と共に、真雪がわずかに身体を折って額同士をくっつける。
緊張したように縮める身体。
上目がちで恐る恐る窺う翡翠色の瞳。
そんな美冬の気配を察したのか、目を伏せたまま口元だけで微笑んだ。
「言葉ってさ、いつだって気持ちに追いつかなくて不便だよな。
伝えたい事の半分も伝わらなくてイライラしたりさ。
言葉なんてなくても気持ちが伝わるなら、それが一番だって思ってた」
美冬は戸惑った表情を浮かべたまま、呆然と立ちすくむ。
間近から降り注ぐ穏やかに笑う声。
何かを予感した鼓動で言葉が消えそうになった。
「俺達はエニグマで、お互いを分かり合う。隠したい言葉も、知られたくない感情も」
触れ合った部分から伝わる体温と。
この感情を知っている、と美冬は心の中で呟いた。
けれど、それは自分の物か相手の物かは分からない。
混乱する思考が脳裏を白く塗り替えていった。
「でも本当に言いたかった気持ちは伝わってなかった。こんな近くにいるのにな」
風が耳元で唸り、遠くで木々の葉ずれの音が聞こえる。
視界が明るくなった事に気付いて美冬が顔を上げた。
不意に顔が離れて視線がぶつかる。
言葉を待つ時間と、ためらう時間が溶けて無言になった。
遠くでサイレンがせわしなく駆け抜けていく。
ため息が聞こえた。

「好きだよ、美冬」

目を見張る。
驚きで薄く開いた口を隠すように手を当てた。
美冬の周囲だけ時間が止まる。
「はじめはパートナーってだけで良かったはずなのに、どんどん欲張りになってさ。
気が付いたら一緒にいたいって」
ゆっくり瞬きながら髪をかき上げる仕草。
「……バカね、俺。もっと気の利いた事言えればいいんだけど全然浮かばねえわ」
照れて笑う顔。
目が合うと悪戯っぽい表情を浮かべた。
凍ったように静止する景色。
落ち着こうとしているのか、美冬の手は何度も髪を梳いていた。
唇が小さく何度か動き、視線が合ってもすぐにそらされる。
「こんな事言って驚いただろ、ごめんな」
ぎこちない動作で首を横に振る美冬を見て、真雪は声を出さずに笑った。
目の前にいるのはいつもの無邪気な彼女ではなく。
流れてくる感情は――
「どうした、美冬」
おどけた声が尋ねる。
美冬の頭に手を置くと、真雪は軽く数回叩いた。
「いつもみたいに、嫌いって言わないのかよ」
真雪は悪戯っぽい瞳で覗き込んだ。
降りてくるのは冗談めかした口調。
美冬は、頬に触れる手の温もりにぎこちなく目を伏せる。
何か言いたげに口を開くものの、数度むなしく動くだけで言葉は紡がれずに。
体の内側で響く鼓動が相手に伝わってしまう気がして息を殺した。
「馬鹿……」

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