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2. 追憶―――飛ぶ鳥

時は一年前、ちょうど今の季節にさかのぼる。
日常の景色を塗り替える幾重の叫び声。その叫び声に呼応し、
周囲はざわめきで支配された。
普段は葬列を思わせる人の波が魂でも抜かれたように一様に立ち止まり、空を仰ぐ。
「……」
薄紅の花弁の混じる柔らかな風も、眠りに誘うような穏やかな日差しも
今は場違いでしかない。
13時22分、駿河通り 五条駅前。
美冬が周囲の視線に誘われるように見上げた先にあったのは
灰色混じりの青い空と、天空へと伸びる建物。
――駅ビルの屋上の端に立つ一人の人影。
思わず息を飲む。体中を得体の知れない何かが走り回り、ざわついていた。
鼓動が大きくなるのが分かる。
視線をそらす事は出来ず、ただ空を仰いだ。
立ち止まる人々の間を縫うようにして、レスキュー隊や警察の制服姿の男達が駆ける。
緊迫した雰囲気を更に際立たせる彼らの怒号に近い指示の声。
だが、周囲の人々はその声すら耳に届いていないのかもしれない。
『自殺』という単語が美冬の脳裏に浮かぶ。
はじめは何かの見間違いかと思ったが、何度見ても人影は柵を背にして立っている。
胸騒ぎと得体の知れない恐怖感が体中を駆け巡っているにもかかわらず
目の前の光景は非現実的に感じた。
目に見えるものは全て現実だというのに。
「……っ」
突然、前触れもなく寒気を覚える。
全身を支配するのはしびれに似た感覚。
我に返った美冬が身体を縮めながら辺りを見回すと、やがて冷気を帯びた視線に気がついた。
いつか、現実か夢か分からない中で出会った黒袴姿の少女が
雑踏の中に悠然と立っている。
時が止まったような周囲の中で美冬を見つめていた。
溢れるほど人は居るのに彼女だけは異質で。
まるで彼女と自分以外はモノクロになってしまった感覚。それ以外目に入らない。
「あ」
声が漏れる。少し離れた位置から美冬を強い視線が見つめていた。
感情を含まない黒い瞳。
好奇でも抗議でもない、けれど何かを訴えかける視線。
「貴方」
何か言葉を探すように動いていた美冬の唇が言葉を小さく紡いだ。
だが、その声は少女に届かなかったのか。絡む視線。音が消え失せた世界。
少女は美冬から視線をそらすと、まるで宙に浮いているかのような足取りで
空を仰ぐ人の中に紛れて消えた。
「彼女が見えるのかい?」
呆然と少女の消えた方向を眺めていた美冬を現実に戻したのは聞き慣れない男の声。
いつの間にか、美冬の隣に黒いスーツ姿の男が立っていた。
「え?」
不意に投げられた言葉に数度、大きく瞬く。
美冬が視線を向けると四十代半ばらしい男は目を細めて笑いかけた。
「あの袴の女の子が見えるの?」
もう一度、投げかけられた言葉。一見すると会社員のようにも見えるが、
それとは雰囲気が違う。
黒いスーツに黒の細いネクタイ。
まるで葬儀の帰りにも見え、非日常の空気を身にまとう。
「あ、はい」
「そうか。やはり見えているんだね」
この緊迫した空気の中で穏やかに微笑む。
「……あの」
遠慮がちな声。
「ああ、申し訳ない。彼女が見えているのが珍しくて、つい声をかけてしまったんだ」
美冬の不思議そうな顔に気がついたのか、男は照れ笑いを浮かべた。
遠くからサイレンが幾つも近付いてくる。
だが、美冬はそれらに視線を向ける事もなく突然現れた男を眺めていた。
「あの子を知ってるんですか」
「うん。特別仲が良いというワケでもないんだけど、ね」
男は腕時計に視線を向けた後、空を仰ぐ。
未だにビルの屋上には人影が見えた。
屋上も、そして地上も多くの声が飛び交っている。
「彼女は死の近くにいるんだ」
突拍子もない独白に似た言葉だった。
ざわめきが消え、その声が妙に大きく響く。
「死、そのものといった方がいいかな」
美冬が怪訝そうに眉をひそめた。男は、美冬の反応を楽しむ視線を投げる。
「死?」
脳裏に思い出す、白昼夢の中で聞いた声。
「ウタカタ」
無意識に名前が口をついて出た。
美冬と男の間に風が踊り、通り過ぎる。
プリーツスカートが小さく揺れた。
「そう、彼女の名はウタカタ。いわゆる死兆星というものだ」
「死兆星、ですか」
「死期が迫る者に見える星の事だね。彼女も死期が近い者だけに見える。
一部の例外を除いては」
顔を見合わせる。
翡翠色の瞳と青い瞳がぶつかった。
「僕らのように」
耳元で風が唸り、髪を巻き上げる。二人は微動だにせず見つめ合った。
男は薄く微笑んだまま表情を崩すことなく。
「あの、貴方は一体」
「13時31分。そろそろ時間かな」
美冬の声は腕時計を一瞥した男の声に打ち消された。
「君はこの場にいない方がいい」
はるか頭上で何事か声が上がり、にわかに騒がしくなる。
つられて美冬も空を仰ぐ。
光に邪魔されてよく見えないが、屋上にいる人影は
今にも飛び立とうとしているように見えた。
かの人物の一挙一動に周囲から悲鳴に近い声が上がる。
「え?」
何かを予感する口調に怪訝そうな表情を浮かべるが返答はなかった。
男はただ微笑み、美冬と屋上付近を交互に見比べる。
「どこかに行かなくちゃいけないんじゃないのかい?」
「あ、そうだ!」
美冬は思い出したように携帯をバッグから取り出して液晶を見た。
待ち合わせは十四時。まだ時間に余裕はあるが。
「話に付き合ってくれてありがとう。じゃあ、お気をつけて」
呆気に取られた美冬を気にする様子もない。男は、わずかに顎を引き会釈をする。
「は、はあ」
美冬は、きびすを返し人の中へと消えていく背中を眺めた。
ややあってから、ため息一つ。
まるで満員電車の車内のような道を歩き始める。
聞くともなしに聞こえる話し声をかきわけながら喧騒に背を向けた。
自分だけが流れに逆らっているような、そんな感覚の中で。
 刹那。
世界を砕かん勢いで聞こえるいくつもの叫び声。
ざわめきが大きくなる。足音が迫る。
空気が一気に動く、そんな感覚。
「!」
美冬が咄嗟に振り返った瞬間に見えたのは、
空から降る影と何か重いものが落下したような鈍い音、胸の奥に響く衝撃。
「な、に……今の」
泣き声に似た叫び声が更に強く、大きく響く。すぐに判断は出来なかった。
何が起こったのかも分からない。
美冬は立ち尽くした。
人の往来が激しくなる。
怒号。
人々の足の隙間から見えた気がした地面に広がる赤い海。
それを見て、美冬はようやく何が起こったかを把握した。

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