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19-7 カーテンフォール

「忘れたよ、なにもかも」

にわかに強く吹いた突風に木々が身を踊らせた。
その音はまるで波。
彼らの間を何も知らない様子で笑って通り過ぎる。
死臭がかき回されるのを感じた。
「そうかよ」
普段はスペースがないほど多くの観光バスや車が駐車されているが、
今日ばかりは一台も見受けられない。
寂しさすら感じるこの場所が非現実的に思えた。
そこに響く、吐き捨てた言葉。
目を細めて睨みつける。
「じゃあ、『さよなら』だな」
静かに発せられた声に呼応して空気がざわめくのを感じた。
真雪を中心に淡い無数の光が浮かび上がる。
蛍を思わせるそれは不安定な動きをしながら、次第に形を成していく。
鮮明になる輪郭。
光の粒子を撒き散らしながら漆黒を舞う蝶だった。
「ダメ、そんな状態で……!」
険しい瞳に時折金色が浮かび、美冬が慌てふためき声を荒げるが。
間近にいるにもかかわらず声は届いていないらしい。
真雪はスラックスのポケットに手を突っ込んだまま、隣で制止する声を見ようともしなかった。
感情が身体の中で熱を生む。
怒りや悲しみ、空しさや自問する声が思考を消していった。
混乱し、叫びたい衝動に駆られた所で美冬は気付く。
これは真雪の感情だ。
心の内が自分に流れてきているのだと。
「美冬」
かける言葉を探していた所に名を呼ばれ、我に返った。
「こいつらでチャリオットの視界を遮るから、その間にお前は突っ込め。得意だろ?」
視線だけを向けた真雪が笑おうとしたのか、表情を歪ませる。
見えるのは不敵な色。
数メートル先にいるチャリオットに聞こえないように囁く声は有無を言わせない強さがあった。
小さく頷いて正面を向く。
真雪から発せられる殺気が空気に溶け、周囲は更に張り詰めた。
「フォローよろしく」
「任せろ」
目を閉じて大きく息を吸う美冬。
再び目を開くと隣を一瞥した。
短く交わされる言葉と共に、どちらからともなく笑ってみせる。
武器を握り直す小さな金属音が聞こえた。
前を凝視して静止する。
見えるのは蝶の残像、離れた位置で手招きをするようにナイフを動かすチャリオット。
渇いた口の中でつばを飲み込んだ。
一瞬の空白。

美冬が馳せると同時に蝶の形をした青白い光が一斉に前方へ向かって走る。
今までの遊ぶような穏やかな羽ばたきとは違う、強く直線的な飛翔。
まばゆい光に目がくらみかけた。
耳の近くで羽音が聞こえる。
チャリオットとの距離が狭まり、闇の中で構える様子が見えた。
後ろへ大きく腕を振る美冬。
歯を食いしばって、チャリオットの懐をめがけて踏み込む。

空気を切る音と、火花が散るような金属同士のぶつかる音がかき消した。
手に感じる重みと抵抗に悔しげに舌打ちを漏らす。
「馬鹿の一つ覚えだ。それ以外に出来ないのか? 先が思いやられるな」
「るせえよ、死にぞこない!」
「同じ方法が通用するほどイレギュラーもバカではないぞ。勉強し直せ」
顔にまとわりつこうとする蝶に、頭を振って避けながらチャリオットは笑った。
感情を剥き出しにした声も彼にとっては愉悦の一つであるらしい。
喉を鳴らしながら狂気含みの目を細める。
「黙れ!」
その声と共に美冬が空いた手でチャリオットの腰を打とうとするも。
鍔迫り合いにあったナイフが押し付けられるように離れて、その攻撃を払いのけた。
バランスを崩しかけた状態から繰り出されるショートソードの一撃が、
チャリオットの隙を狙って繰り出される。
「なあ、姫君。お前はなぜ戦う? 本来であれば俺達は同じ目的を持つ者同士じゃないか。
俺をやろうとする必要など何処にもないだろう」
再び二つの刀身が激しくぶつかり合い、対峙した。
優しくなだめるように言う様が美冬を逆撫です。
押し返そうと片足に重心をかけて身体を前傾気味にすると睨み上げた。
左手のショートソードは隙を狙ったままで動かない。
「褒められたいのか? それとも必要とされている実感が欲しいのか?」
「違う!」
息をするのもためらった。
目の前から流れてくる死臭に、こめかみが強く脈打っているのが分かる。
「あたしは許せないだけよ。あんたみたいに生き返るのが許せないだけ」
口の端を上げて歪んだ笑みを浮かべる顔に鋭い視線を向ける。
周囲の景色も、状況も全て忘れていた。
ここにあるのは目の前の敵と、対峙している事実だけ。
光を振りまく蝶でさえ目に映らない。
「死んだ奴が帰ってくるんだったら皆が望むわ!
でも、そんなのあっちゃいけないんだ。今度も来世もない、死んだら終わりなんだよ!」
触れ合った刃が耳障りな音を立てた。
それをかき消そうとするかのように美冬が叫ぶ。
怒りと力を込めた手が震えた。
「例外なんて絶対に許さない! 片っ端から叩き落してやる!」

刹那。

美冬が一瞬、力を抜くとチャリオットのバランスが崩れる。
微かに笑う口元。
左手がチャリオットの腹部を大きく薙いだ。
漆黒の夜の中で生まれる、銀色のライン。
同時にチャリオットの顔に苦痛が浮かぶものの、すぐにそれは狂気の混じる笑みへと変わる。
大きく振りかぶる動作。
それに素早く反応した美冬は咄嗟に右手に持ったショートソードを顔の前に構えるが。
「く、あ……っ!」
短く声が漏れた。
繰り出された攻撃に耐えかね、アスファルトに手を付きながら後ろへと引きずられる。
まるで見えない何かに押されているかのように。
手の甲の痛みに気をとられている場合ではない、と美冬が唇を噛む。
後方から聞こえるのは地面を走る何かの音。
視界の端に青白い光の弾が駆け抜けていった。
狙う先は自分に付く蝶を振り払おうとするチャリオット。

『夜は 死だ』

地響きを伴う轟音に混じって、ウタカタの声がする。
普通なら人の声など聞こえないはずだが――そう思いかけて、
彼女の声は脳裏に直接聞こえている事に気付いた。
外灯の付近に黒袴の少女が見えたが美冬はそちらに視線を投げる事もなく前を見据える。
タイミングを窺う視線。
腰を浮かせたままの姿勢で、右足はいつでも駆けられるように地面を強く踏みしめていた。
『常に 自分の 側に あり 必ず 訪れる』
「まだだ、エニグマ! これでは俺を倒すことなど出来ない!」
憑かれたように笑う声が周囲に反響する。
景色が土ぼこりでぼやけてはいたが、チャリオットの足元だけが見えた。
地面に落ちる赤い、いくつもの斑点。
モノクロの景色の中で血の色だけが鮮やかに目に焼き付く。
後方から聞こえる詠唱と、インカムから聞こえる声。
全てが遠ざかり、自分の内側で響く鼓動が世界中に広がっているのではないかと錯覚した。
『意思や 願いとは 別に』
隣に気配を感じて、美冬が一瞥すると自分の横に漆黒の袂が見える。
暗闇で彼女は薄く発光しているようだった。
「いい子はお家に帰る時間だぜ」
その声は引き金。
今までチャリオットを囲んでいた無数の蝶が同時に炸裂する。
激しい音に耳鳴りが突き抜けるのを感じた。
にわかに明るくなった視界。
赤い飛沫がスローモーションで飛ぶ。
張り上げるような笑い声に戦慄を覚えた。
何事かを言っているようにも聞こえたが、反響する爆音でそれは聞き取れず。
『誰もが 恐れ その反面 強く 焦がれる』
「美冬、行け!」

背中に飛ぶ声に突き動かされ、美冬は地面を蹴った。
幕に似た煙が顔にぶつかるのも厭わず突き進む。
チャリオットは何処に立ち、どんな状態かは分からない。
普段なら脳裏に描く攻撃の方法も消え、思考が抜け落ちたように真っ白になっていた。
足は何かを知り、手が勝手に動く感覚。
死臭が強くなる。
白くぼやけた中に曖昧なシルエットが見えた。
膝を落として横一閃。
手ごたえを感じる。
歯を噛み締めた美冬は右手に持ったショートソードに左手を添えると。
大きく引き、そして。

爆発の余韻が消え、明瞭になる景色。
そこにあったのは。
血に濡れたまま立ちすくむチャリオットと、
彼の腹部に深く刀身を突き刺す美冬だった。


「か……っ!」
目が見開かれたまま、短く声が漏れる。
チャリオットがゆっくりと見下ろすと自分を見上げる強い視線にぶつかった。
渾身の力を込める手は突き刺す事をやめず、押し続ける。
貫こうとしているのか。
「……は」
食いしばった歯の隙間から聞こえる、チャリオットの切れた息。
真雪は静止した二人を凝視し続けた。
息をひそめて、わずかな変化を見逃すまいと瞬きもせず。
全身に警戒をみなぎらせたままで右手の指先に光を宿す。
「捕まえたわ。もう、あんたは逃げられない」
低く呟く声が不気味なほど大きく聞こえた。
片足を大きく踏み出したままで固まった姿勢。
不意に、眉間にしわを深く刻んだチャリオットの口元が歪む。
苦痛に耐える表情ではなく。
彼は声を出さずに笑っていた。

「……頼みを、聞いてくれたのか」

痛みで切れる息の中で発せられた言葉。
狂気はなく。
そこにいたのは廃校で『自分を殺せ』と美冬に命じた、チャリオットそのものだった。

数秒の間。

美冬が驚いた表情で薄く口を開く。
目を見開き、呆然とした面持ちのままで首を何度も横に振った。
束から滑り落ちた、震える手。
逃れたいのか足がわずかに後ずさる。
「い、や。あたし」
「俺はただのイレギュラー……いや、それ以下だ。ただの屍を殺して、そんな顔をするな」
「違う。あたし……! あた、あたしは」
半笑いの声が途切れ途切れに言葉をつむぐ度に美冬が泣き顔に変わった。
わななくように唇が震えて、空気を求めるように動く。
「当然の、結末だ。こうなるべきなんだよ」
「殺し、殺……」
耳をつんざくほどの絶叫が美冬の口から発せられた。
うわごとのように何度も同じ事を繰り返しては、しゃくりあげる。
すがる視線がチャリオットを見上げた。
そこにあるのは怯えた色。
「お前達は正しい。何の……」
突然、チャリオットの体躯が傾く。
手からこぼれるナイフが地面に落ちて派手な音を立てた。
腹部に突き刺さるショートソードの束を掴んだまま、糸が切れたように崩れ落ちる。
咄嗟に手を伸ばしかける美冬もまた、地面に座り込んだ。
もうろうとした表情を浮かべるチャリオットの腕を掴んで現実にとどめようと
力なく揺さぶる。
俯いた顔が持ち上がり、ぎこちなく顔を引きつらせた。
ここにあるのは重い沈黙。
駐車場を囲むように植えられた木々だけが濃い夜気の中で揺れる。
シルエットは固まったままで動く気配はなかった。


座り込み、肩で息をする死人は目の前で俯く美冬の腕を軽く叩く。
かたわらに転がるのは赤く染まるショートソード。
腹部を押さえるチャリオットの指の隙間からは血が溢れていた。
彼を中心に広がる血だまりが遠くの街灯の光を受けて輝く。
生臭い匂いと死臭が混じり合い、吐き気を呼んだ。
「チャリオット」
視界に黒い靴とスラックスが見えたところで湿った足音が止まる。
感情の浮かばない声が聞こえた。
チャリオットが重い動作で顔を上げると。
そこにはしゃがみ、なだめるように美冬の肩を抱く真雪の姿がある。
視線がぶつかり、笑おうとしているのか目を微かに細めた。
「嫌な仕事を押し付けたな。俺の事は放っておいて、お前は美……」
「聞きてえ事がある」
重なる声音に強い意志を感じて口をつぐむチャリオット。
無言で次の言葉を待つ。
遠ざかりかける意識を保とうとしていた。
「お前の目的は何だ。そこまでして何をしたかった?」
「……言った通りだ」
「小鳥、か?」
「ああ」
今まで漆黒だった空が色を変えつつある事に気が付く。
闇と同化していた物の輪郭が次第に浮かび上がり。
何も動かず、時間は止まっていた。
ゆっくりと瞬いたチャリオットが天を刺そうとする東京タワーを眺める。
横顔に宿るのは穏やかな色と苦痛。
「小鳥は籠の中にいる。いつも外を夢見て、空に恋をしているんだ」
「どういう意味だよ」
アスファルトの地面に血が音もなく広がっていく。
真雪は嗚咽を漏らしながら身体を縮める美冬を強く自分の方へ引き寄せながら、疑問の視線を向けた。
だが、返って来るのは言葉ではなく力の抜けた笑み。
何度か唇が動くが言葉は伴わず、訴える眼差しだけが存在する。
「……レイヴン」
風が通り過ぎる度に静寂が色濃くなっていった。
呼んだ名は幻聴かと思うほどに小さな声で。
思わず身体を乗り出して耳を寄せる。
「頼む、彼女をハーメルンから守ってくれ」
その言葉に動きが止まった。
眉間にしわを刻んだままの表情を向ける。
チャリオットの真剣な面持ちがぎこちない動作で頷いた。
苦しげに上下する胸元。
身にまとう衣類はおびただしい血にまみれている。
「ハーメルン? ハーメルンって何だよ!」
「もう、お前は知っているかもしれない」
「人か!? それとも……」
腕を掴んで問い質したい衝動を懸命に抑えた。
無意識に口調が強くなっていく。
チャリオットの瞳が次第に閉じられていく事に焦りを感じた。
この出血ではそう長くは持たないだろう。
延命は望めず、彼自身もまた拒むはずだ。
「おい!」
「……み」
「え?」
「あの、死神を」
息を飲んで青ざめる唇を注視しながら神経を耳に集中する。
発せられたのは疑いたくなる言葉。
真雪が再び問おうと口を開くと。

チャリオットは後方へと引っ張られ。
その大きな身体が音を立てて地面に投げ出された。

弾かれたように顔を上げた美冬が引きつった声を上げて、大きくかぶりを振る。
地面に手をついて、四つん這いの姿勢で覗き込もうとするのを真雪は止めた。
肩を掴む手に力を込めて。
「だから、そんな顔をするな。逝くに逝けないだろう」
それは言葉か、それともため息か。
視線が動いて美冬を見定めると見逃してしまいそうなほど小さな表情で笑う。
重い沈黙。
仰向けになったチャリオットは、そのまま地面の中へ飲み込まれてしまいそうに見えた。
顔は空を仰ぐ。

「……ブルーバード」
この世界で響く唯一の声。
「すまない。お前を空へ解き放てそうもないよ」

死臭が次第に薄らいでいく。
真雪は固まったように動かなかった。
表情を隠す髪の向こうに見えた口元は、悔しげに強く唇を噛んでいた。
膝に置かれた拳は震え。
「お前も、そんな顔をするな」
投げられた声に真雪が顔を上げる。
視線の先にあったのは消えそうな表情の中で浮かんだ笑みだった。
頼りなく動く口元が止まる回数が増える。
「……お兄ちゃんだろう?」
一瞬動きが止まり、同時に苦笑する。
チャリオットはまどろみと戦っているように見えた。
重い目蓋が何度も閉じようとするのを懸命に堪える。
「バーカ。こんな時までガキ扱い……すんじゃねえよ」
震える語尾を隠そうとするかのように、わざとらしく笑みを浮かべようとするが。
表情は歪んだままだった。
「いいか」
力を込めているのか、わずかに大きくなるチャリオットの声。
地面の上に放り出された手から力が抜けていく。
息が漏れる音ばかりが聞こえた。
「お前は、死神になるな。誰も彼も……彼岸、に……」
語尾は消え。
その後に続く言葉は何秒待っても紡がれる事はない。
凍る景色の中で誰もが息をするのを忘れた。
呆然とした顔。
視線をそらす事も出来ず、ただ見つめる。
空気の色が変わっていくのを感じた。
異変を察知したらしい美冬が顔を上げる。
けれど、言葉はない。

真雪は俯いていた。
美冬の肩を掴んでいた手が脱力して滑り落ち、垂れ下がる。
目を閉じたまま微動だにせず。


十数分が経過しても二人は押し黙っていた。
インカムの向こうもまた、状況の説明を求める事なく沈黙を保つ。
空気が肌を刺し、言葉を奪っていく。
重い沈黙の下で動く事も出来なかった。
葉ずれの音さえも飲み込む。
色彩のない景色。
「……チャリオットの沈黙を確認」
真雪が低く呟いた。
うわ言に似たそれは、すぐに風の音にかき消される。
何処までも続くような駐車場に取り残されるシルエット二つ。
彼らの前に転がった塊の時間は止まっていた。
黒いアスファルトの上に静かに広がっていく鮮血の海。
立ち込め始める朝の気配とは裏腹に、深く沈む空気がある。

不意に。
何かに気付いた美冬の顔が持ち上がり、空を仰いだ。
眩しげに目を細める。
そこにあったのは東から燃える空。
毒々しいほどの金色の光が世界を塗り替えようとしていた。
呆然と木々とビルの狭間に生まれた太陽の断片を見つめる。
表情はなく、疲れた瞳に生気はない。
ゆっくりと目を瞬かせ。
「このまま燃えてなくなっちゃえばいい、全部」
無感情に言葉を紡ぐ。
彼女の背後にある東京タワーは朝の色に染まっていた。

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