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18-2 farewell

日差しの強さに5月も下旬に差し掛かりつつあるのを知る。
美冬は地上から吹き上がる突風に咄嗟にスカートを押えた。
ここは『会議室』と戯れに呼ぶ、比良坂事務所の入る雑居ビルの屋上。
「昨日ね、アヴァロン行ってきたんだよ。ギムレットさんに会ってきたの」
「ギムレットの所に? お独りで?」
「ううん、所長と一緒」
何気ない口調で話す声に彼女の隣に佇むノクティルカが眉を潜めた。
アヴァロンとは比良坂事務所から徒歩数分の、夜見坂本界隈にあるバーである。
その店のギムレットといえば霧島区でも有名な情報屋の一人だ。
「一回行ってみたかったんだよね! あたしだけ行った事なかったんだもん」
「貴方は未成年なんですから当然でしょう。ところで、どんなご用件で行ったんですか?」
「ん、チャリオットの件。もうすぐ大号令が来るから準備の為にね」
微笑が消え失せ、表情を引き締めた。
顔を正面に戻して、手すりに頬杖をつく。
「チャリオットの背後に誰がいるのかとか、
あの廃校にいたミロクって人は何者なのかとかさ。
新しい事を知っても、まだ分からない事だらけだから」
「確かに。前よりもピースは揃ってきましたが、まだまだ足りないですしね。
それで、何か新しい情報は手に入りましたか?」
「それが全っ然! どれも推測と噂話ばっかりでコレっていう有力なモノはなかったよ。
ミロクにしてもそう。名前しか分からないなんてありえる?」
車の騒音と、どこかの店舗のアナウンスが聞こえた。
辺りに散らばる、生気のないコンクリートの屋上がまるで島々のようにも見える。
「特徴も行動範囲も分からないんだもんなぁ。
目撃情報はともかく誰も知らないなんて、一体どういう事なんだろ?
此岸でもそれ以外でも、生活してたらある程度の情報はあるはずなのに」
「ここまで情報が流れていないという事は逆に怪しいですよね。
何者かが隠蔽しているのか、うまく隠れて生活しているのか」
眼鏡を指の腹で押し上げると微かに息をついた。
並ぶ2つのシルエットは動かず、遠くの景色を眺める。
「話では、あのアブソルートの攻撃もレイヴンのスキルも避けたと言うではありませんか。
その能力で、まったく此岸で話を聞かないというのはおかしいです」
ノクティルカの言葉に美冬が頷く。
何かを考えているのか、視線を手すりに落としたままで固まっていた。
「ギムレットさんはミロクが何者かは知らなかったんだけどね」
思考のなかで吐き出された、どこか上の空の言葉。
「なんか見当は付いてるっぽい感じだったな。勘だから口にしなかったんだろうけど」
「そうなんですか」
「うん。最近、妙な動きをしている奴らがいるからソレ絡みなんじゃないかってさ」
「誰の事なんでしょう?」
まだ夕暮れの気配を感じられない空は澄み切っていた。
灰色に包まれている事の多い東京では珍しい、目にしみるような青。
考える静寂に飲み込まれて2人は押し黙る。
どちらからともなく、ため息が漏れた。
「もう少しなんだ。よく分かんないけど、もう少しで色んな事が見える気がするの。
何かがおかしいと思うのに、それが何だか分からない。すごくじれったいや」
「焦っても良い事はありませんよ。急がば回れです」
「うん、分かってる」
美冬は前傾姿勢で手すりにもたれて、下を覗き込む。
ミニチュアの街の中で人が蠢くのが見えた。
「同じ空の下にチャリオットもミロクもいるはずなのにね」
呟く声にノクティルカが顔を向けた。
「目的地は決まってるのに行き方が分からなくてグルグル迷ってる気分だ」
上空を笑うようにカラスが鳴いて通り過ぎる。
苦い笑みを浮かべる横顔。
殺風景な屋上に、靴先が地面を叩く音だけが響いていた。

「あ」

突然、何かを思い出したのか身体を起こす美冬。
ややあって不快そうに眉を寄せた。
「そういえばさ、聞いてよ!」
沈んだ空気が、風に流されていくように変わっていく。
「アヴァロンで失礼な目にあったんですけど!」
「どうかしたんですか?」
「ギムレットさんね、あたしの事子供扱いするんだよ!? ありえないよ!」
訴える様子にノクティルカが一瞬呆気に取られた後、息を漏らすように笑みを浮かべた。
「子供でしょう」
「ノクティルカさんまでそういう事言う! っていうかさ、あたしは確かに未成年だけど
年頃の娘にクリームソーダ出すか、普通!? 小学生じゃないっつーの!」
「牛乳じゃなくて良かったじゃないですか。ちゃんと飲んだんでしょう?」
笑いながらの問いに美冬は不貞腐れた視線で見上げる。
両手は拳に変わっていた。
「の、飲んだよ! ……って、そうじゃなくて! あたしは子供じゃないもん。
なんで皆子供扱いするんだろ。まったく」
「大人扱いして欲しいんですか?」
「大人扱いじゃなくて大人なの! お酒はまだ無理だけど、結婚だって出来るんだぞ」
「そうですね」
抗議の口調に笑いながら頷く。
俯いて顔を隠そうとするが、肩が震えていた。
それを見た美冬は頬を膨らませたままでノクティルカの腕を叩く。
「やっぱりバカにしてる! 何だよもー!」
「すみません。でも大人は子供だと言われて、そんな風にムキになりませんよ?」
「ううううるさーい!」
悔しげな声が辺りに響く。
前かがみで睨みながら覗き込んだ。
「そりゃノクティルカさんと比べたら子供かもしれないけど! でも……」
「では、大人扱いしましょうか」
「……へ?」
思わず動きが止まった。
意味を捉えそこねて疑問の表情を浮かべる美冬の頬をノクティルカの両手が触れる。
まるで押さえられる格好。
その体温に体をこわばらせた。
笑みを浮かべ、見下ろす眼鏡越しの眼差しが何を考えているのか分からずに戸惑う。
「え、あの。ノ、ノクティルカさん?」
慌てた口調は風に溶けてしまったのか、目の前の相手には聞こえなかったらしい。
硬質な色合いの中で2つの黒い影は動かなかった。
息を飲んだまま。
「お、大人扱いって何?」
取り繕う、ぎこちない笑みを浮かべながら美冬は首を傾げようとするが。
柔らかく包む感触とは裏腹に逃れようとする事さえ出来ない。
ノクティルカの手をほどこうと触れた状態で静止。
「さて、なんでしょう?」
いつもと同じ穏やかな口調は問いをはぐらかせた。
笑いながら、美冬の顔をゆっくりと上へ向かせる。
「あ、あの。あのねっ! その、あたし! こういうの、やっぱ……」
美冬にはノクティルカが何をしようとしているのか、どこかで分かっていた。
鼓動で自分の声さえ耳に届かなくなる。
顔が熱いのを、動揺しているのを悟られまいと息を殺した。
目をそらしたくてもそらせないのは何故か分からずに。
「私の事は嫌いですか?」
「ち、ちが。嫌いじゃないし、でも、こういうの……あ、いや! したくないってワケじゃ!
そ、そうじゃなくて。な、何言ってんだ! 違う、あのねっ」
慌ててまくし立てる。
遠くに見える霞んだビルの群れも、街の喧騒も全てが曖昧になった。
見上げている事に息苦しさを感じて目を伏せる。
「あ、あの……」
美冬がもう一度、動揺した瞳でノクティルカを見上げた時。

静かに見下ろしていた顔が吹き出した。

「へ!?」
急に笑い出したノクティルカを、頬を紅潮させたまま呆気にとられた表情で眺めた。
「冗談ですよ」
「ええ!?」
「冗談ですって」
そう言って、頬を固定していた手が離れる。
唖然としたままで止まっていた美冬が状況を把握するように視線をせわしなく動かし。
一瞬の空白。
「はぁあああ!?」
「いえ、どういう反応するのかなと思ったら試したくなりまして」
「『なりまして』じゃないよ! もー、すっごいドキドキしちゃったじゃんか!」
「すみません」
尚も肩を震わせるノクティルカ。
拗ねたように睨む美冬の手前、笑いを引っ込めようとするが
堪えきれない様子で口元を歪ませた。
「全然悪いとか思ってないでしょ!? すぐそうやってからかうー!」
「でも、本当にしてしまえば良かったですね」
大きく息を吐いて髪をかき上げると悪戯っぽい表情で見下ろす。
それを見た美冬は息を飲んだ後、何か言いたげに唇を動かした。
けれど声は伴わずに。
「バ、バカ! 死ねば……」
手が照れ隠しに叩こうとするのを受け止める、向かい合った手。
驚いて表情をやわらげる。
いつものノクティルカであれば美冬にされるがままか、避けるはずだが。
「え?」
不思議に思い、見つめると。

掴んだ手を引き寄せられる。
遠くに見えた鳥の残影。
身をかがめるノクティルカと、動けずにいる美冬。
視界の端で笑う顔が見えた。
頬に触れる温もりと唇の感触。

「隙ありです」
楽しげな言葉を残して、顔が離れる。
ノクティルカは身体を起こすと唖然とする美冬を観察していた。
「……っ!」
美冬が数秒の空白の後、咄嗟にに頬に手を当てる。
動揺した視線が落ち着きなく動いていた。
「まだまだ子供ですね、ラプター」
「ちょ、ええ!? いや、あの! わー! えと、うんと! あの!」
「顔が赤いですよ」
「こ、これはっ! だって! ああああ、もうノクティルカさんのバカ!」
狼狽した声と共に美冬は顔を赤らめたままで拳を繰り出すが。
笑いながら避けられ、空を切る。
「ゆ、油断も隙もない!」
「修行が足りませんね」
「ノクティルカさんはいっつもそうだ! そうやって、あたしが……あたしの……バカー!」
「悪かったですって。子供には刺激が強すぎましたか」
「子供じゃないってば!」
喚く美冬が唇を噛んで強い視線で見上げた。
拳を握り締めたまま、肩をいからせる。
「はいはい、そうでしたね。では、お詫びにお茶を淹れて来ましょうか。
リクエストなどありますか?」
それまで、手すりに背中を預けていたノクティルカが背を浮かせた。
肩越しに見えるのは速い速度で流れていく雲。
早送りの映像を見ている気分になる。
からかいの口調に口を尖らせていた美冬は投げかけられた問いに首をひねった。
「今日は少し蒸しますからアイスティーにしましょうか。
昨日美味しいアールグレイが手に入りましたので、
それを使ってオレンジアイスティーでも」
「わ、おいしそう!」
表情を輝かせて発せられた言葉。
振り向いた姿勢のままで見下ろしていた死神は安堵の息を小さく漏らす。
「やっと笑ってくれましたね」
「……だって、恥ずかしい事するからじゃんか」
気まずそうな声に返答はなく、返ってきたのは相変わらずの目を細めて笑う顔だった。
目の前で黒がひるがえると同時に靴音が遠ざかっていく。
「では作って持ってきますので、少し待っていて下さいね」
「ん、ありがと」
背後で重々しく閉まるドアの音を聞きながら、正面に顔を向ける美冬。
何を思うのか俯いて口元に小さな笑みを浮かべた。
色濃く漂う春の中に夏の気配を感じる。
手すりに手をかけ、佇むシルエットはどこか楽しそうに見えた。

それから間もなく。
背後でドアが開く気配を感じて、美冬が反射的に振り返ると。
「ここにいるのは猛牛だけか」
鉄色のドアから上半身だけを出した真雪が眉間にしわを寄せて辺りを見渡していた。
「猛牛じゃないわよ。殴られたいの?」
「なあ、親父見なかった?」
「所長ならアヴァロン寄った後、社長の所に行くって言ってたよ」
「うーわ、マジかよ。お前のボスん所行ったら夜まで帰って来ねえじゃん」
落胆した声と共に真雪が屋上に姿を現す。
後頭部を乱暴に掻きながら思案顔で美冬に歩み寄った。
前を留めていないジャケットとネクタイが翻る。
「どうしたの? 何か大事な話?」
「あー、まあね。ちょっと気になる事があるっつーだけなんだけど、と」
困った様子でため息をついた真雪が美冬の顔を凝視した。
向かい合う状態。
スラックスのポケットに手を突っ込んで考え込む。
「え? 何?」
不意に変わった空気に戸惑い気味に尋ねるが、無言の時間が流れていた。
慌てた様子で美冬は周囲を見渡したり、髪を手櫛で整えたりしている。
「……どうしたの? お前」
「どうしたのってこっちのセリフだっつーの」
「顔、赤いぞ」
「ええ!?」
顎で示されながら言われ、咄嗟に口元を隠した。
考えなくても理由は思い当たる。
動揺を隠そうと視線をそらすが、その動きはどこかぎこちなかった。
「そ、そんな事ないけどな」
「そう?」
美冬が口の中で歯切れの悪い言い訳を呟いていると真雪の手が額に触れる。
驚いて見上げた先にあったのは、もう片方の手を自分の額に当てている姿だった。
不審そうに首を傾げている。
「多少熱いけど、子供は体温高いモンだしなぁ」
「だから子供じゃないってのよ! ムカつくわね、どいつもコイツも!」
「もしかして、また妄想してたとかいうオチか?
一人で赤くなって悶えてたんだろ、どうせ。
姉御が言ってたぞ、美冬は想像力がたくましすぎるって」
納得したように頷く真雪の腕を力任せに叩き続ける美冬。
睨んで怒っている事を表現するが、相手には伝わっていないらしい。
「妄想しても捕まらねえけどさ。色々と行動に移すと犯罪になっちまう場合があるから
美冬ちゃんも一歩踏み出さないように……」
「違うってば! 死にたいの!? 死にたいのね!?」
襟元を掴んで前後に揺さぶりながら噛み付く勢いで怒鳴る。
真雪は声を上げて笑いながら美冬を楽しそうに眺めていた。
「さーてと! 美冬もからかった事だし買い物に行ってきますかね。
そろそろタイムセール始まる時間だろ」
西に傾きつつある太陽を見て呟く。
今まで午後特有の雰囲気を振りまいていた日差しに金色の黄昏が混じっていた。
もうすぐ下界では帰宅ラッシュが始まり、夜の住人が動き出すのだろう。
美冬は掴んでいた手を離し、どこか不機嫌な瞳で見た。
「そんな顔すんなよ。お前に妄想癖があっても今までと変わらねーって」
「妄想ネタはもういいよ!」
噛み付く勢いで怒鳴った美冬の頭を乱暴に撫でる。
無意識に肩をすくめて身構えたが、その先には笑みを浮かべる顔があった。
「今日は水曜日だから魚が安いかしらね。じゃーな、美冬」
誰ともなしにいいながら手が離れる。
きびすを返す瞬間に小さく笑いかけられ、つられて美冬も笑った。
明るい光の中でスーツの黒が浮いて見える。
ドアに向かう後姿が軽く腕を挙げた。

瞬間。


美冬の目には見えた。
真雪を大きく包むような白いベール。


「……な」
思わず声を上げた。
目の錯覚でも、気のせいでもない。
確かにこの目には見えたのだ。
どこからともなく舞い降りた衣が真雪を覆うのを。
何度も見てきた景色。
早まる鼓動の中、足元から力が抜けそうになるのを必死で堪える。
呼吸が乱れ、瞳の中が熱く潤んでいくのが分かった。
嘘だと美冬は何度も心の中で呟く。

けれど。
確かに見えていた。
そして、今も。

「う、そだ」
呆然と首を振りながら呟く声。
下界からの喧騒も色彩も一切が消えた錯覚を覚える。
唇がわななき、ともすれば泣きそうになるのを抑えた。
二人の距離は十数メートル。
目の前の死神はそんな美冬の様子に気付かず、鼻歌混じりでドアに近付く。
「嘘だ。こん、なの」
ドアが開く音が聞こえた。
普段なら聞き逃しそうなほど小さな音であるはずのそれが屋上に響く。
それと重なるように聞こえた、駆ける靴音。
空気が動き、黒い残像が横切った。

そこにあったのは。
屋上を出ようとドアノブを掴んだ真雪を後ろから抱きしめる美冬の姿。

それは何処かに消えてしまうのを食い止めようとしているのか。
半ば体当たりに近い状態だったせいか、バランスを崩しかけた。
「うわ! ……と、あっぶね!」
ドアに手を突いて体勢を整える。
驚いた声と共に聞こえる、ドアにぶつかった衝撃音が響き渡った。
「おい、危ねえだろーが。何すんだよ、もう」
怒気と呆れの混じる声にも美冬は微動だにしなかった。
胴に腕を回し、硬く締め上げるように力を込めたままで顔を埋める。
その肩は震えていた。
「ほら、ふざけてねーで離れろって。
抱きついてもいいけど場所とか考えろって言ってるだろ? 頭ぶつけたらどうすんだ」
苦く笑いながら美冬の手を軽く叩く。
目の前に迫るドアから逃れるように、首をひねって自分の背後を見ようとするが
翡翠色の髪しか見えなかった。
漏れるため息。
「美冬、どうしたんだよ?」
笑みが消えていく。
聞こえてくるのは賑やかさを増した繁華街のアナウンスや音楽。
視界の端には灯り始める光が一つ、また一つと次第に数を増やした。
けれど、ここにあるのは張り詰めた緊張感。
話すことさえ躊躇う、重い沈黙が漂う。
「……か、ないで」
「ん?」
「行っちゃ駄目」
聞こえた、震える声は消え入りそうなほど小さく。
耳を寄せようとするが、美冬の力はそれをする事さえも許さなかった。
「何でだよ。買い物行くだけだっつーの」
「駄目。行っちゃ駄目」
「困ったな」
髪を掻いて空を仰ぎながら言う。

何があったのかまったく見当がつかないと真雪は心の中で呟いた。
流れてくる感情は動揺や不安に支配され、取り乱しているのが分かる。
原因も分からず、彼女に言葉は通じそうもない。
一体何があったのというのか。

「美冬」
何度目かのため息。
硬く結ばれていた手をこじ開け、真雪は美冬と向き合った。
俯いた彼女の前にしゃがみ込むと瞳を覗き込む。
「ちゃんと説明してくれよ。どうしたんだ?」
つとめて優しく問いかけるが、聞こえるのは嗚咽ばかりだった。
美冬が喋ろうと口を開く度、目を見つめる度に言葉は涙に変わる。
口を押さえたままで首を振る仕草。
「落ち着くまで何時間でも待つから。だから」
「どこにも、行かないって言った」
「……え?」
「まゆ、は……どこ、も行かないって」
潤んだ声がしゃくりあげながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
言いかけた言葉を飲み込み、言葉の意味を考える真雪。
時間だけが流れる。
言葉を探す無言と、言葉を選ぶ無言が重なった。
「どこにも行かないって言った」
その声は怒っていた。
「みんなそう言う。でも嘘だ。みんな平気で嘘をつく」
「美冬」
「みんな、あたしを置いていなくなる。みんな」
美冬の手が真雪の肩を掴む。
まるで助けを求めるような眼差しで真っ直ぐに見つめていた。
その中に宿るのは怯え。
「真雪はいなくならないよね? あたしを置いてどこにも行かないよね?」
頬を伝い、雫が地面へと落ちる。
真雪は見上げたまま、動かなかった。
長く伸びる影。
美冬越しに見えるのは、死に向かう太陽。
その射抜こうとする眩しさに目を細めた。
「言って、いなくならないって。何言ってんのって笑って」
美冬は糸が切れたようにその場に座り込む。
弱々しい声で発せられた懇願は祈りに似ていた。
肩に乗せられた手が力なく滑り落ちる。

真雪は目を伏せ、ため息をついた。
屋上からの見慣れた街並みと共に見えた、もう一つの景色。
河岸、白菊、棺、ウタカタ。
そして、白いベールに覆われる黒いスーツを着た――

「……ああ、なるほど」
無意識のうちに呟く。
真雪は俯いた格好で自嘲気味に笑った。
何度も頷き、力なく髪をかき上げる。
重苦しい空気の中で。
「泣かせたくねえと思ってる割に、泣かせてるのはいっつも俺なのな」
独白が漏れた。
視線の先にはむせび泣く美冬と、アスファルトの地面に出来た涙の斑点。

景色は止まったまま、時間だけが過ぎていく。
殺風景な屋上が今日はいつもよりも広く感じる。
幾度目かのため息。
この場所にどんな音も届く事はなく、言葉を失った重苦しい沈黙だけが立ち込めていた。

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