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18. 花の名前

喧騒を背に薄暗い雑居ビルへと足を踏み入れようとして立ち止まった。
地面に落とされた視線は不思議そうな色を滲ませたまま空へと上っていく。
「何これ」
無意識のうちに言葉が漏れた。
美冬はしゃがみこむと地面に落ちていた一片の白を摘み上げる。
それはプルメリアの花。
周囲を見渡すが何の違和感も感じられず、ただ疑問だけが残った。
比良坂事務所のある夜見坂本界隈は夜を恐れて足早に帰路につく者、
夜を待ちわびる者が入り混じり。
死臭はどこにもなく、怪しい気配を感じる訳でもない。
「何でこんな所にプルメリアがあるのよ」
全身から警戒感を発する美冬は、慌しい中にもどこか楽しげな雰囲気の中では異質だ。
けれど、内側から溢れる不安にも似た予感を押し殺す事も出来なかった。

――はじまるのだ。
どういう事かと問われても答えることは出来ない。
けれど脳裏で声が聞こえた。
まるで警鐘のように。



「おはよーごじゃまー……うわ!」
ドアを開けながら発せられた弾む声が途切れる。
腕を引っ張られ、よろめいた。
バランスを崩しながらも部屋の中から伸ばされた手にされるがままで。
大きく数度瞬く。
「え!? あ、あの!」
気が付けば何者かが美冬を抱きしめていた。
斜め上で笑う口元がある。
動悸と動揺の中で状況を知ろうと辺りに視線を巡らせた。
見えるのは、いつもの比良坂事務所の景色と苦笑を漏らす黒いスーツ姿の死神達。
すぐ近くにあるのはカジュアルなシャツの布地だ。
人とは違う、肌に触れる威圧感を美冬は知っている。
「え、閻王?」
「いやー、やっぱりハグするなら女の子だよなぁ」
頭上の嬉しげな声が何かを噛み締めながら呟く。
背中に回された腕がわずかに力を込めた。
「抱き心地いいし、いい匂いするし。野郎はダメだな、うん」
「あの、閻王」
「硬いし何も楽しくないもんね。なんか木にしがみついてるって感じで」
戸惑う様子を知ってか知らずか、閻王は美冬の髪を指に絡めてもてあそぶ。
助けを求めるように顔を横に向け、サーペントを見るが。
彼女はキセルをくわえて笑うだけだった。
「閻王、ですから……」
困り果てた表情で口を開きかけると。
閻王の大きな手が美冬の太ももの辺りに置かれ。
感触と体温は上へと登り、なだらかな曲線を滑るように撫でる。
瞬間。
「何しやがる、このクソ閻魔!」
美冬が怒鳴り声と共にプルメリアを持ったままで力任せに閻王の頭を殴った。
睨み上げ、その視線で怒っている事を伝えようとする。
視界の端で周囲が慌てているのが見えたが、それを気にしている余裕はなかった。
「あは、殴られちゃったー」
「『殴られちゃった』じゃないわよ! 何、当たり前に人の尻触ってんのよ!」
「怒るなって。ちょっとした興味じゃないか」
「うっさい、バカ! 死ねばいいのに!」
身体を剥がした閻王は目の前で怒る美冬を楽しそうに観察している。
日差しと同じ色の髪をかき上げて目を細めた。
そこで聞こえた、ため息一つ。
「ラプターが怒るのも無理はないけれど、大目に見てくれないだろうか。
閻王は下心があってやっているわけではないんだ」
「下心がないのに尻触るとかないでしょ、普通は!」
「そうだぞ。俺は純粋な好奇心からケツを触っているんだ、大目に見てよ」
「どんな好奇心だ!」
ダンデライオンの言葉に大仰に頷く仕草。
その一つ一つに噛み付く勢いで反応する美冬の頭を真雪がなだめるように触れる。
何か言いたげな視線を受けて苦く笑った。
「閻王。先ほども申し上げましたが、そういった行為は
女性にされますと色々と問題がありますので……」
「そう言うけどさ。野郎のケツ触ると『誤解されるからやめろ』って言うし
女の子だと『色々問題がある』って、一体俺は誰のケツを触ればいいんだよ」
「何を威張っているんですか」
表情を引き締めた閻王は真正面から見据えてくる美冬を見て肩をすくめた。
困ったように軽く眉をひそめる。
「悪かったって、猛牛」
「ラプターです」
「ああ、そうだっけ。じゃあ猛牛、お詫びに俺のケツ揉んでいいから機嫌直してよ」
「尻触って機嫌直るとでも思ってんのか!」
拳を作り、抗議する美冬を見て動きが止まる。
視線は顔を見ていなかった。
「閻王?」
急に表情をこわばらせたのを見て、怪訝そうに呼びかけるが反応はない。
ただ何かを見つけたかのように一点を凝視し続ける。
思案する顔が唇を噛んだ。
「どうなさいました?」
賑やかだった室内は静まり返り、途端に窓の外の喧騒が聞こえ始める。
窺う視線が自分に集中していても気にしない様子で。
閻王は美冬の手から目を離そうとしなかった。

「何故、花座を?」

絞り出すような声。
問おうと唇を開いた美冬の手首を乱暴な動作で掴むと顔を覗き込み、詰め寄る。
「何でお前が花座を持ってるんだ。奪ったのか? それとも食ったのか?
そこまでエニグマの力は……」
「え?」
「答えろ。その花座はどうした?」
有無を言わせない強い口調に圧倒され、口をつぐむ。
まるで自分が悪い事をしてしまった気分になってしまう。
閻王は美冬の顔と彼女の右手を交互に見比べた。
そこにあるのは拳からわずかに顔を出す白い花。
何か話さなければと思う反面、その眼光に言葉が出てこない。
「あ、あの。花座って」
「その花の事だよ」
「プルメリアが……花座?」
静寂の中で恐る恐る問う声が響く。
ぶつかり、混じり合う疑問の視線。
閻王の肩越しに夕暮れが死に、空が赤く染まっているのが見えた。


「つまり事務所の近くにソレが落っこちてたって事か。何だ、早く言ってよ。
てっきりお前が食べちゃったのかと思ったじゃないか」
閻王はソファに座ったままでため息をつき、目の前に立っている美冬を一瞥した。
彼が足を乗せるテーブルの上にはプルメリアの花が乗っている。
頭上の空調からの微風に乗って重く甘い芳香を嗅いだ気がした。
「食べる?」
「いや、こっちの話。そっか、プルメリアって花座にそっくりなんだな」
独白のように呟く声。
閻王を囲み、黒装束の列が並ぶ。
これから言われるであろう何かを警戒しているのか、その顔は一様に厳しかった。
「閻王。その花座というのは」
「そっか、それを説明しなきゃいけないんだったっけ。
じゃあ、本題に入る前に説明しとくか。関連がないワケじゃないしな」
軽く数度頷くと首をひねって顔を外に向ける。
言葉を選んでいるのだろうか、視線が時折虚空をさまよった。
「花座って言うのは」
閻王の指が一同を指した後、自分の胸元を何度か突っつく。
微かに不敵な笑みを浮かべる水色の瞳。

「ここにある」

水を打ったような静けさが広がっていった。
言葉を口の中で繰り返し、眉間にしわを寄せて固まる。
真雪と美冬は顔を見合わせたままで。
「まぁ、普通の奴等は知らなくて当然なんだけど。
人っていうのは内側に花を持ってるんだ。赤ん坊でもじーちゃんでもさ」
「花、ですか」
「そ。その花の上に魂を乗せて生きているんだよ。
それが花座――お前らの言うプルメリアの花と同じ形をしているってワケ」
風が窓を叩く。
気が付けば世界は夜に包まれていた。
室内で聞こえるのは淡々と語る声と、座り直した時に生じる革のこすれる音。
「つまり魂の器って事ね。実際見せられれば一番分かりやすいんだけど、
それやったら死んじまうからな」
「と、いう事は」
「さすがノクティルカ、物分りがいいね。
うん、花座を取り出そうとすれば相手は死んじゃうんだな。
魂も、そう。無理に取ろうとすれば花座ごと奪う事になって、結局結果は同じだ」
美冬はその言葉に動きを止める。
唇を噛んで手で覆うと、プルメリアに視線を落とした。
必死で記憶を手繰り寄せる。
蘇るのは殺風景な廃校の一室、頭痛を誘う死臭、蘇るチャリオットの声。
「魂の入れモン、ね」
「なるほど。それでしたら何故、突然死の被害者が揃ってプルメリアの花を持っていたのか
説明がつきます。あれは何かのメッセージではなく、抜け殻だった」
「そうだね。魂を強引に奪った末の残骸だという事か」
両側から交わされる言葉が耳をすり抜けて、通り過ぎた。
美冬は上の空の状態で微動だにせず。
「あー、報告書にあったな。『被害者は一様にプルメリアを持っており、
ハーメルンの笛吹き男という童話の一節を口にしていた』――だっけ?
プルメリアって言われてピンと来なかったけど、花座だって分かれば見えてくるものがあるな」
「ああ。だが、まだ分からない事だってあるじゃァないか」
閻王の言葉にサーペントが頷く。
赤い唇がため息をつくように煙を吐き出した。
「何故ハーメルンか。そして誰が首謀者か」
「つーか、ウォークライ。誰が首謀者かって分かってるようなモンじゃねえか。
チャリオットとあのティッシュみてーな野郎の仕業だろ?」
「まだそう決め付けるのは早いですよ。
限りなく黒には近いかもしれませんが、何の確証もない状態ですし」
たしなめるように言う。
言葉すくなに黙り込む一同の中で美冬が顔を上げた。
どこか思い詰めたようにも見える表情で。

「証拠はあるよ」

一斉に注目されても、見えない何かを睨む表情を崩そうとしない。
生気がない室内に美冬の言葉だけが妙に大きく響いた。
窓の外のネオンと賑やかな音楽も今は偽りにしか見えずに。
「チャリオットが言ってたの。狼は小鳥に恋をしたって。
想いを伝えたくて、自分と小鳥の為に毎日花を摘むんだ。
狼っていうのはチャリオットの事じゃないかって思うんだけど」
「狼と小鳥?」
「うん。それと、死人は魂を食べなきゃ生きていけないとも」
怪訝そうな視線を向ける真雪を見上げた。
数秒、見つめ合うと軽く頷く仕草。
まるで声を出さずに会話をしているようだ。
「美冬がチャリオットに捕らえられた際に聞いたそうです。
そして彼はハーメルンの一説も唱えていた。それは俺も聞いています」
脳裏に蘇るのは白い花に囲まれた美冬の姿。
次第に生気が失われていく瞳を思い出して、背中に悪寒を覚える。
真雪はわずかに顔を歪ませたままで言った。
「ラプター、小鳥というのは?」
「それが分からないの。聞いても答えなかったし、手がかりもなくて」
「何かの例えなんだろうけどねェ。女って捉えるのが妥当なんだろうが」
「『一羽の小鳥がいました。小鳥に恋をした狼は想いの深さを伝えようと
毎日花を摘みます。彼女の為に、そして自分が生きる為に』……うーん」
鼻に抜ける美冬の思案する声と閻王を唸り声が重なる。
押し黙ったままで話を聞いていた彼は肘掛けに頬杖を付いたままで一つ頷いた。
死神達の視線が向けられる。
「一旦、冥府に帰ってあっちの連中と話し合ってみるわ。
情報と事実関係を整理した上で、俺達の見解と今後の方針を伝えるから」
立ち上がり腰に手を当てた姿勢で上体を反らした。
天井を仰いだままで何かを思うように止まり、目を閉じる。
その顔から感情を読む事は出来ない。
「近いうちにチャリオット討伐の号令が下されるだろう。
お前等もそのつもりで準備をしとけよ」
返事をする顔を眺め、頷く。
聞こえるのは窓辺に向かう閻王の靴音だけ。
その背中をいくつもの視線が追っていた。
窓の外は奈落の闇。
漆黒の空を見る度に、このまま夜が明けないのかとさえ思ってしまう。
「人を救う為に人を殺す、か。難しいね」
独りごちた声が自嘲気味に笑った。
その言葉は美冬の体の内側で不気味なほど響く。
色彩のない、モノトーンの景色。
それぞれが何かを考えるように無言の時間が長く続いた。



重く息苦しい空気から逃れるように真雪は屋上に佇んでいた。
灯りのない薄暗いこの場所を照らすのは、遠くから届く眩い光。
手すりにもたれて目を伏せる。
耳元で唸りながら通り過ぎる風にジャケットの裾が揺れた。
微量の冷たさの中に雨の匂いを嗅いだ錯覚。
「こんな所にいたのか」
ドアの軋む音、閻王の声。
足元まで伸びた光の帯に振り向いた。
逆光気味になって彼の表情は見えないが、そのシルエットは笑っているように見える。
「閻王。まだお帰りになってなかったんですか」
「ん、ああ。猛牛達から詳しい話を聞いててね」
靴音が真雪と並ぶ。
視線に気付いて顔を向けると苦笑の混じる笑みがあった。
指を指されて戸惑う。
「その喋り方、やめてよ。俺は今、仕事で話してるつもりないんだからさ」
肩をすくめる仕草に笑いながら頷いた。
閻王は満足した表情で目を細めると、手すりに背中を預ける。
彼の視線の先にあるのは星も月も見えない黒い空。
「冥府に帰るのが嫌で時間潰してるのかと思った」
「失礼な。仕事してるんだよ」
「とか言って事務所のお菓子、ずっと食ってたんじゃねえだろうな?」
「そんな事ないもん。ウォークライに貰ったソース煎餅と……もー!
そんな事言うと減俸するからな!」
不貞腐れたように睨む真似。
唇を尖らせる仕草は、どことなく子供っぽい印象を与える。
彼が死者を審判する閻魔だと誰が分かるのだろうか。
「今は仕事じゃないんだろ?」
「んまーっ! 可愛くない!」
ふざけて繰り出される拳を真雪は笑いながら避けた。
息をついて真顔になると、眼下で聞こえたクラクションの方向へ視線を向ける。
不意に訪れた沈黙。
「討伐大号令か。久々だな、冥府が動くのも」
呟く声が何かを思い出すように。
「俺達は手を出せないよ。実際にやってるのはお前等だろ」
「そうだけどな。でも勅命なんて、お前と知り合った時以来だから8年振りか?」
「ああ、もうそんな経つっけ? 早いなぁ」
遠くを見つめていた閻王が急に吹き出した。
怪訝そうに見つめられながらも、笑いをこらえきれない様子で顔をゆがめる。
口に手を当てて、肩を震わせていた。
「何よ。思い出し笑いなんてしちゃって」
「いや、あの頃に比べて真雪は随分変わったなーってさ」
「そう?」
真雪はネクタイの結び目に指をかけたままで首を傾げる。
「あのグレてた真雪が今じゃこんな立派なオカンに」
「オカンじゃねえよ」
「じゃなきゃ乙女だ」
「乙女でもねえっつーの! なんで皆、俺のこと乙女乙女言うんだよ。ムナクソ悪いな!」
吐き捨てる口調。
拗ねた表情で顔をそむけるのを見ながら閻王が声を上げて笑った。
それを咎めるように軽く腕を叩く。
「お前をそこまで変えたのはエニグマの片割れか?」
「美冬の事?」
笑うのを止め、一息つくと小さく笑みを浮かべたままで問うた。
時折、車の騒音で声がかき消されそうになる。
夜を忘れた街並を見つめる真雪。
言葉を選んでいるのか、迷っているのか。
「んー。どっちかっつーと、あいつ含めた比良坂じゃねえかな」
「事務所の連中か」
「ああ。仕事仲間って事以上に俺にとっては家族同然っつーかさ。
なんか色々あるけど、あいつ等といれば何でも出来る気がするんだわ」
爪先で硬い地面を蹴りながら笑みを漏らした。
「簡単な事ばっかりじゃねえし、うまくいかねえ事だらけだけどさ。
でも、この仕事も今の自分も結構好きよ? ようやく、そう思えるようになった」
「なるほどね。それは良い……」

それまで穏やかに笑っていた閻王が固まった。
息を飲み、目の前を見つめ。
ややって顔をしかめたまま視線をそらす。

「どうした?」
「いや、何でもない」
「冥府からのお呼び出しか? そろそろ帰って来いっつー」
真雪は不思議そうな表情を浮かべながらも、片眉を上げて口元に笑みを浮かべた。
そんな彼の表情を見ようとはせず、黙り込む。
視線をそらし眺める先にあるのは五条駅付近の賑わい。
「まぁ、どっちにしろ事務所には戻るか。
お前が長い時間いねえと、まーた俺が遊びに連れ出したって思われちまうしな」
促すように軽く背中を叩くと真雪がドアに向かって歩き始めた。
その後姿を見つめる水色の瞳。
遠くなりかける様は何かを思い出す。
それは。
「あのさ、真雪」
「何だよ。つーか早く戻るぞ」
帰りたくないと駄々をこねていると思っているのだろうか。
真雪は微量の苛立ちと苦笑を浮かべて振り返る姿勢のまま、立ち止まっていた。

閻王は真顔で見つめる。
何故こんなにも当たり前に見えている物に動揺しているのだろう。
「お前が死んだら」
閻魔という名を持つ自分にとって死は日常的で、それが全てだ。
人は死を悲しいと思うものらしい。
けれど、冥府の審判者にはそれを理解する事が出来なかった。
だが。
「俺も悲しいのかな」

言葉を投げられ、一瞬呆気に取られた真雪が困ったように笑う。
それはどこかくすぐったそうにも見える表情で。
俯き加減で髪をかきあげた。
「バーカ、何言ってんだよ」
閻王が見たもの、それは。
「そもそも俺が死ぬワケねえだろうが」


真雪を包む、まるで発光するかのような真っ白な薄い衣。
死神達が天使のベールと呼ぶものだった。

そのベールに包まれた者は――

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