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16. Dear.

「本当に覚えてないのぉ!?」

響き渡る甲高い声。
テーブルを隔てて真正面からの拗ねた視線に真雪は、わずかに体をのけぞらせた。
気まずさから逃れようと窓の外に顔を向ける。
美冬が救出され、比良坂事務所に帰ってきてから数時間が経過。
ここに漂っているのは日常と言う名の平穏な空気だった。
「……謝ってんだろーが、さっきから」
「あたしが聞きたいのは謝罪じゃないの! 本当に覚えてないのかって聞いてんの!」
「だーかーらー」
そこまで言いかけてため息をついた。
言葉を選ぶ無言の時間だけが流れる。
強い口調で問い質す彼女の隣で困った表情を浮かべるノクティルカに
助けを求める視線を向けるが。
「あまり怒ると具合が悪くなりますよ」
「だって! このボケナス、都合が悪くなると覚えてないって言うんだよ!?
手ェ怪我したトコとかは覚えてる癖に!」
「誰がボケナスだ」
「じゃなきゃクソッタレよ!」
美冬はテーブルに手をついて身を乗り出すと、頬を膨らませるようにして睨みつけた。
まるで噛み付きそうな勢い。
けれど、その目には違う感情が見え隠れする。
「だから記憶が抜けてる部分があるっつってんだろ。こっちだって好きで忘れてる訳じゃねえよ」
「何、逆ギレ? あんな事しといて忘れたとか信じらんない!
アレは全部嘘だったとか言うわけぇ!?」
「アレってどれだよ。つーか、俺は何したんだって聞いてるじゃねえか」
「……だ、だから……っ! それは、その」
突然、美冬の勢いがなくなる。
口ごもり、顔を紅潮させて目をそらした。
そんな彼女から流れてくる感情は『羞恥』

真雪は何度目かのため息をつくと天井を仰ぐ。
元気なのはいいが、ずっとこの調子で尋問されているのだ。
彼女との間に何があったのかは覚えていない。
気が付いた時は美冬の唇と触れそうな位置にいた。
おそらく彼女と、エニグマの能力――『シノノメ』を発動した自分との間で
何らかの会話等があったのだろう。
聞かれても思い出せそうな気配はなく、一番知りたいのは真雪自身だった。

「あああ、真雪のバカ! 死ねばいいのに!」
「死ねばいいですよ」
わめく美冬の隣でノクティルカが頷きながら平然と言う。
なだめようと口を開きかけた真雪の動きが止まった。
「……待て。美冬はともかく、何でお前が死ねばいいのにって言うんだよ」
「それはご自身にお尋ね下さい」
「なんだそりゃ」
「ノクティルカはね」
首を傾げる動作。
隣に何者かが立つ気配と同時に声が降りてくる。
真雪が首をひねって見上げると、そこに立っていたのは目を細めて笑うダンデライオンだった。
「妬いているんだよ。君がラプターとあんな事になったから」
「だから、あんな事って何よ」
「サーペントの話だと待機中のノクティルカは随分面白かったらしいね。僕も見たかったな」
「……所長」
ノクティルカがダンデライオンを軽く睨んで瞳で何かを伝えようとする。
ややあって視線をそらし、わずかに息をついた。
「へーえ、妬いてんだ? 意外と子供なトコあんのね、兄さん」
ダンデライオンから視線を移して意地の悪い笑みを浮かべる真雪。
前かがみになるように膝に頬杖をつき、観察する。
すると。
「ラプター、近いうちに2人で食事に行きましょうか。ご馳走しますよ」
「わ、ホントー!? お肉?」
ノクティルカは美冬の方へ体を向けるように座り直し、満面の笑みを浮かべた。
心なしか『2人』という単語を強調しているように聞こえる。
「はい。中津区に精肉店が経営する美味しい焼肉屋さんがあるんですよ。
特に和牛の評判がいいんです」
「いやーん、ノクティルカさん大好きー!」
美冬が笑顔でノクティルカに抱きつき、胸元に頬をすり寄せた。
そんな彼女の頭を撫でるように手が置かれる。
「……俺は?」
呆れた目で2人を見ていた真雪が自分を指差す。
数秒の間。
美冬は抱きついたままで不機嫌そうな顔を一瞥すると、すぐに上を向いた。
視線に気がつき、見下ろす眼鏡越しの赤い瞳。
「どうしましょうか、ラプター。お邪魔虫さんが来たがってますよ」
「どーしよっかのー。真雪は大事なコト覚えてないって言うしなぁ」
おどけた口調で尋ねられ、大げさに頬を膨らませて顔をそむける動作。
あからさまな拗ねる態度に真雪はノクティルカと顔を見合わせて苦笑する。
何か言いたげな表情のまま、頭を掻いた。
それからダンデライオンに顔を向け。
「親父。俺と美冬、今日休みもらっていいかな」
「別に構わないけれど。どこか行くのかい?」
問いに頷き、伸びをしながら外を眺める。
そこに広がっているのは真新しい空気に包まれた朝の風景。
休日の朝だからだろうか、人通りはないに等しかった。
「お姫様のご機嫌取りしてこようかと思ってさ」
苦い笑みを含む声が答える。


「海だーっ!」
美冬は手すりに手を置き、身を乗り出しながら目を細める。
目の前に広がるのは海と灰色がかった空、そして眼下に広がる公園の緑。
ビルの群れとこの臨海地区を繋ぐレインボーブリッジを眺める美冬の横顔は嬉しそうだった。
「……そうね」
「夜景も綺麗だけど、昼間もいいよね。お天気もいいし!」
「ああ」
真雪は手すりに背を付けたままで行き交う人の波を眺めていた。
繰り返す、気のない返事。
ため息混じりのその顔はどこか疲れているようにも見える。
「ちょっとぉ。せっかくのお出かけなのに、何シケたツラしてんのよ」
にわかに強く吹いた風にワンピースの裾を押えながら唇を尖らせた。
隣に佇む脱力する真雪に身体をぶつけながら。
「ちょっと聞いてくれ、美冬」
「何よ」
「真雪君はほぼ徹夜状態でお姫様を助けに行っていました。
お姫様は怪我一つなく無事でしたが、何故かご機嫌斜めです」
「……あんたのせいでしょうが」
2人を包むのは楽しげな喧騒。
天候に恵まれた日曜日だという事もあり、家族連れやカップルを数多く見かける。
真雪は軽く睨まれ、苦笑を浮かべた。
「そこで真雪君は機嫌を直してもらおうとデートに誘いました。
風呂に入って着替えるだけだと言うのにお姫様は1時間半の遅刻。ありえません」
「しょうがないでしょ。服選ぶのに手間取ったんだもん!」
「心の広い真雪君はそれしきの事ではキレません。
気を取り直して、可愛いお洋服を着てきたお姫様にどこに行きたいのか聞きました」
不満そうな視線に、なだめるように手のひらを向ける。
笑いを含んだ声で話しながら空を仰いだ。
「真雪君は無難なセンでテーマパークか映画辺りだろうと想像していましたが、
さすが猛牛は一味違います。大相撲春場所と寄生虫博物館を挙げてきました。
デートで行く所でしょうか? 更にありえません」
「うっさいな! お前、寄生虫なめんじゃねーぞ!」
「でかい声で言うなよ、んな事。
……さて、以上の点を踏まえて問題です。かわいそうなのはどっちでしょう」
その問いに、同時に自分を指差す。
顔を見合わせて眉間にしわを寄せた。
「俺だろ、どう考えたって」
「被害者ヅラしてんじゃないわよ、この乙女野郎。
そりゃ遅刻したり助けてもらったのは確かだけどさ」
語尾が次第に小さくなっていく。
袖口のフリルを指でいじりながら美冬が不満そうに口の中で何かを呟いていた。
「『せっかく真雪と出かけるんだから可愛い服着たいじゃんか』?」
「なっ!」
ゆるくウェーブがかった翡翠色の髪に手を置き、真雪が顔を覗き込みながら言った。
美冬の顔に朱が差す。
驚いたように見上げて言葉を失う様子に小さく吹き出した。
「なんで、それ……っ!」
「お前が考えてる事は分かるんだよ」
横顔が笑みを浮かべたままで。
美冬は何かを言おうとしながらも言葉を見つけられないまま口だけを動かす。
そして諦めた表情で、風で揺れる木々を見つめた。

エニグマのせいだ、と心の中で呟く。
それは『シノノメ』と『ヨイ』から成り立ち、2人で一つといわれる能力。
感じるもの全てを共有し、まるで相手が自分の中にいるように。
景色、感情、痛みをはじめとした感覚も分かってしまう。
隠し事をしているつもりはないが、何から何まで相手に伝わる事に抵抗を感じた。
曖昧になる境目に美冬は戸惑い、怖くなる。

「それにしても気持ち悪いよな。エニグマっつー力は」
眉をしかめて首を傾げる仕草。
「たまーにさ、こう普通に見てても違う景色が見えたりするんだよな。
喋ってねえのに、急に美冬の声が聞こえたりとか」
「四六時中じゃないだけマシだけど、すごく違和感あるね。今だって……」
そう言いかけて口をつぐむ。
隣にある白い包帯が巻かれた右手を見つめた。
美冬の手に伝わっているのは波のように繰り返し感じる鈍い痛み。
それは紛れもなく真雪の傷の痛みだった。
「……別にお前が責任、感じる必要はねえんだぞ」
「でも」
「俺がやった事だろ。お前は悪くねえよ」
視線に気付いた真雪が真顔で見つめる。
木で作られた歩道を歩く、数多くの足音で声がかき消されそうになっていた。
まるで周囲の人間には自分達など見えていないように、どの顔も笑み混じりで。
その中で美冬はため息をついて俯く。
「あたしがチャリオットに捕まらなければ真雪は怪我しなかったじゃん。
ううん、それだけじゃない。みんなにも迷惑かけないで済んだ」
「そんな事言ったらキリねえだろうが。かすり傷みてーなモンだから心配すんなよ」
「こんなに痛いのに、かすり傷なワケないでしょ」
日差しに暖められた微風が頬を撫でる。
たしなめるように睨む視線にため息混じりの苦笑を漏らした。
遠くで水面が光を受けて輝くのが見える。
「強がりが通用しねえのも考えモノだわ」
誰ともなしに呟く声。
「でもな」
真雪は髪をかきあげ、正面に顔を向けたままで瞳だけを動かす。
不意に視線がぶつかった。
「お前が無事なら、この位の怪我なんて何でもねえよ」
どこか照れた様に肩をすくめて笑って見せる。
通り過ぎる風に髪やワンピースの裾が揺れた。
「ありがと」
見上げる顔が困った色を滲ませながらもつられて口の端を上げる。
そして何かを思うように目を伏せ、今度はからかいの色を含んだ表情で覗き込んだ。
数秒の無言。
堪えきれない笑みを押し殺し。
「『礼を言われるような事してねえし、本心なんだけど』って?」
「……人の心ン中、勝手に読んでじゃねえよ」
薄笑いを浮かべる美冬が小突こうとする手を避けた。
声を上げて笑う顔につられて真雪も同じ表情を浮かべる。
そして、手すりから背をはがし背筋を伸ばす仕草。
「さて、どっか行くか。ずっとここで話してるのもつまらねえだろ」
「そだね。真雪はどこか行きたい所とかある?」
「んー、俺は特にねえけど美冬が……」
言いかけた言葉が止まる。
美冬が腕に触れると同時に、真雪は過敏に反応した。
その様子に美冬は一瞬手を引っ込める。
「真雪?」
前触れなく訪れた変化に戸惑う。
隣から身を乗り出し窺った。
目が合い、見つめ合った瞬間。

真雪は目を見張り、顔を赤くした。

「ど、どうしたの?」
一歩踏み出しかけた足は止まり、口を押さえて固まる。
心配そうに覗き込む美冬と顔を合わせようとせず。
気まずそうに視線を泳がせて顔をしかめた。
「ちょっと。真雪、大丈夫?」
「い、いや。何でもねえ」
絞り出した声に動揺が滲む。
取り繕うように何度も頷くが、心ここにあらずといった風だ。

真雪は必死で平静と保とうとしていた。
美冬に触れられ、顔を見た瞬間に視界に飛び込んできたのは。
数時間前に見た廃校の教室、間近で笑う自分の顔、左手薬指に口付けるシーン。
それだけではない。
鼓動や声、指を舐める感触、唇に触れる体温でさえも生々しいほど鮮明に。
これは美冬の記憶であり、抜け落ちた意識の空白部分。
その結論に行き着くまでに時間はかからなかった。

「……何してんだ、俺……」
無意識のうちに言葉が漏れる。
「そりゃ美冬が怒っても仕方ねーわな」
「へ? 何が?」
周囲の人間が無関心を装いながら好奇の視線を向けるのを気にする余裕はない。
手すりにもたれて、うなだれる真雪の腕を美冬が揺さぶる。
しかし、深く息をつきながら独りごちるばかりで返答はなかった。
「美冬」
「ん?」
発せられた声は小さく、聞き漏らさないように顔を近づける。
「俺を一発殴ってくれ」
「はぁ!? 何、そのマゾ発言。ちょっと、何で赤くなってんの!?」
頓狂な声を上げて顔を歪める美冬。
目が合っても、すぐにそらされる。
言葉を選ぶ沈黙ばかりが押し寄せ、会話は表れた側からたちまち消えた。
「つーか、しばらく俺の方見ないで……」
「全然意味が分かんないんだけど! なんかムカつくわね」
赤い顔のままで弱々しく呟いたきり、真雪は手すりに突っ伏す。
何かに耐えているようにも何かを悔いている風にも見える姿。
美冬は状況が把握できないまま、取り残された気分になっていた。


「えーと、つまり」
海岸に沿うようにして作られた公園の遊歩道を歩きながら
美冬は宙を睨んで額に指を当てる。
止まりそうな速度で歩く2人の横を数人の子供が歓声を上げながら通り抜けていくのが見えた。
思わず目で追っていたそれから視線を隣へ移す。
「あたしと目が合った瞬間に、シノノメだった時の事を思い出したの?」
「いや、正確にはお前が見たモンとかが俺に見えたって事だな。
景色だけじゃない、舐めた感触とか温度とか全部分かった」
「ちょっと! そういう事言わないでよ!」
怒鳴り声と共に腕を何度も叩いた。
真雪は髪をかき上げようとしたポーズで止まったまま、深く息をつく。
疲れたように力なく歩く足。
顔は手で遮られ、表情をうかがい知る事はできなかった。
「……ごめん」
長い無言の時間の後に吐き出す、躊躇いが混じる声。
美冬は無言で顔を向ける。
どちらからともなく立ち止まった。
周囲の空気が変わっていく。
「マトモな状態じゃなかったとは言え、あんな事するなんて最低だよな。
お前が怒るのも無理ねえわ」
霞んで見える天を刺そうとするかのようなビル群と長く伸びるレインボーブリッジ。
遠くの商業施設から音楽やアナウンスがすり抜けていく。
まるで全てが作り物であるかのような錯覚。
「何言っても言い訳にしか聞こえねえだろうけど悪気はないんだ。
お前を傷つけるつもりも、そういう欲求を満たそうとしたつもりもない。
覚えてねえクセに何が分かるって感じだけど」
真正面から見上げてくる視線から逃れたいのか、真雪は顔を上げようとしなかった。
言いずらそうに途切れがちな言葉を紡ぐ。
「本当にごめんな。どんな状況であれ全面的に俺が悪……」
「嘘なの?」
美冬の問いが真雪の語尾と重なった。
驚いた拍子に視線がぶつかる。
遠くに聞こえる足音や人の気配が全て消えていく。
「シノノメとしての真雪が言った事とか、した事は全部嘘なの?」
言いかけて、止まる唇。

「……あのキスは何?」

怒った風でも、問い質す風でもなく。
美冬は真雪の腕に触れて静かな口調で尋ねた。
大きな声ではないはずなのに、妙に耳に染み付く。
頭上の太陽は地面に一つの影を作った。
日差しの暖かさでさえも感じる事は出来ない。
「どんな状態であれ、俺は俺だよ」
「答えになってない」
軽く睨むと目の前の顔は困ったような表情を浮かべた。
おそらく、どう答えていいのか迷っているのだろう。
「……嫌いだったら、そんな事するワケねえだろうが」
「じゃあ、嫌いじゃなかったら誰とでもできるんだ」
不貞腐れた響きを持つ、吐き捨てた言葉に美冬が目をそらしたままで言った。
真雪は苛立ったように髪を乱暴に掻くと何か言いたげに息をつく。
2人も周囲の景色も、全て止まってしまったかのようだ。
「馬鹿、何でそうなるんだよ。言わなくても分かるだろ?」
「分かんない」
「分かれよ」
「分かんないもん」
頬を膨らませるのを見て真雪は苦笑した後、横を向いて顔をしかめた。
数秒間、黙り込む。
「お前、何が何でも言わせたいらしいな」
「だって」
「困ったもんだ、この理解力のねえ相棒は」
「殴るわよ、真雪」
美冬は真雪の腹部を殴る真似をしながら軽く睨みつける。
しかし、自分を見つめる赤紫色の瞳が真剣な色を宿しているのを見つけ。
息をひそめて押し黙り、言葉を待つ。
人影はなく、周囲を包んでいるはずの木々や水の声も耳に入らない。
ここがどこであるかという事も忘れてしまいそうな気がした。
「美冬。あのな」
突然、真雪が何かを思い出したように口をつぐんだ。
美冬を見つめたままで表情をわずかに曇らせる。
訪れた静寂。

真雪は言いかけた言葉を飲み込んだ。
気持ちに嘘はなく、それを伝えるのも簡単かもしれない。
告げれば今までの関係が壊れてしまうかもしれないという不安以上に
彼を躊躇わせたのは。
ノクティルカの想いを知り、悩んでいた彼女の姿が脳裏に蘇ったから。
自分が伝えれば、また悩ませてしまうだろう。
いや、前以上に辛い顔を見る羽目になるのではないかと。

「……悪い。やっぱり何でもねえ」
向かい合っていた状態から、真雪は逃れるように海の方へと向き直る。
水上バスが横切っていくのが見えた。
平静を装う横顔。
美冬は首を傾げて不審な目で見上げ。
「言いかけて止めるな!」
「気が変わった。これは俺の心の小箱に閉まっておくわ」
「やだ、言ってってば! 気持ち悪いよ。気になるじゃん!」
地団駄を踏んでいた美冬が目の前の黒いジャケットを掴んで身体を揺さぶる。
まだ何かを考えているのか、抗う様子もなく真雪はされるがままの状態で。
「言わないと痛い目に遭うぞ」
「へえ。例えば?」
「真雪の死神用のスーツが全て省エネ仕様になります」
「うわ、半袖スーツとかマジで勘弁してくれ」
レンガが敷き詰められたどこまでも続く歩道。
十数メートルほど離れた地点には撮影スポットにもなっているモニュメントがある。
そこに人々は集まっているらしく、賑わいの気配を感じた。
苦笑を浮かべた横顔はその方向を見た後、美冬に視線を戻す。
どこか思いつめた色が見え隠れしたのは気のせいだろうか。
「聞いたら後悔するぞ、お前」
「しないもん」
「言ったな。絶対に?」
「おう」
大きく頷く。
真雪は一歩踏み出すと美冬と再び向かい合った。
ためらい、視線がさまよう。
相手と自分の感情が入り混じり、どれが自分の物か分からなくなる。
緊張が感染したように鼓動が早まっていた。
「1回しか言わないからな」
その声に宿る感情は何であるか分からずに上の空で頷く。
息苦しさを感じた。
毎日のように顔を合わせ、いろいろな表情を見ているはずだった。
けれど、真雪のこんな表情を見るのは初めてだと美冬は心のどこかで思う。
切なさと何かが入り混じる、いつもよりも大人びて見える表情。
「シノノメでも、いつもの俺でもお前に嘘はつかない」
内側で不安が暴れる。
これは自分の物か、流れ込む相手の物か。
見つめた先で小さく微笑む瞳。


「俺は、お前が……」


瞬間。

脳天から足元まで一気に突き抜ける寒気。
鼻腔を突く臭気を感じて我に返った。
視線を感じる。
人のものではない、これは――


「イレギュラー!」
美冬の表情が一気に険しくなり周囲を鋭い眼差しで見渡す。
「近い。しかも狙われてる」
肌を刺すような殺気を感じ、注意深い動作でバッグの中から手袋と携帯電話を取り出した。
周囲の空気が凍りつくように張り詰めていくのが分かる。
まるで自分達以外は全て静止しているのではないかと思うほど。
「気配は一つ。多分あたしの斜め後ろ……あの茂みの中」
唇を噛んで、視線だけを後方に投げるが。
見えるのは不自然に揺れる一部の緑のみ。
あの木立の向こうにイレギュラーが息を殺して窺っているのだろう、おそらく。
「ね、真雪」
「……前回といい今回といい、絶対世界単位で拒否られてるとしか思えねえ」
「ここだと人の目があるから誘導した方がいいよね。どこかあるかな、人のいないトコ」
「今度こそ立ち直れねえよ、俺」
「……って、ちょっと聞いてんの!? 何してんのよ、あんた!」
返事がない事を不審に思った美冬が振り向いて怒鳴る。
そこに居たのは。
膝を抱えるようにしゃがみこみ、硬いレンガに指で何かの模様を書き続ける真雪だった。
「美冬、俺もう帰りたい」
「何言ってんのよ!」
「俺が振り絞った気合とか勇気とか、その他もろもろ返せ」
「いじけてないでよ! イレギュラーがいるんだってば、もう!」
地面を見つめたまま拗ねた口調で呟く真雪の腕を掴んで
立ち上がらせようとするが微動だにせず。
焦った様子で茂みと真雪を交互に見比べた。
「こいつ、話忘れてんだろうなぁ。しかも絶対気付いてないんだぜ? ありえねえ」
「ああああ! もう、早く動いてってばー!」

丸みを帯びた風がすり抜けていく。
降り注ぐ日差しで溢れた景色の中で、美冬の苛立った声だけが響いていた。

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