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15-6 ESC

「手配第823号、チャリオット」
低い声が響くと共に、胸元から出した紙をチャリオットに突きつける。
射抜く眼光。
アブソルートは無表情のままで、武器を持ち上げると肩に乗せた。
「エクスキューショナーが一、アブソルート。天網の名の下にうぬを捕らえる」
向かい合ったままで景色が止まる。
無言で探り、目で会話をするように。
チャリオットは肩で息をしたままで正面を見据えていたが、
何かを思い出したのか息をつくように小さく苦笑した。
「死人を相手にするとは此岸の番人も随分暇なのだな」
「己のした事くらい分かっているであろう? 無害であれば屍など相手にはせぬ」
「捕らえる、と。殺さないのか?エクスキューショナーの得意分野だろう」
交わされる言葉を聞いていない様子で真雪は生み出した光の球を指の腹で撫でて弄ぶ。
部屋には花の白、青い月光と鮮血の赤。
死んだ沈黙の中で、チャリオットが肩を上下しながら呼吸するのが見えた。
「我が主からの命がなければうぬを生かしておこうなどと思わぬわ」
吐き捨てた言葉と共に鎌を握り直す。
アブソルートが睨んだまま、口を開きかけた所で。
聞こえたのは退屈を具現化したような声だった。
発せられたのはアブソルートの隣。
真雪は涙を目に浮かべながらあくびをしていた。
集まる視線に背筋を伸ばしながら顔をしかめてみせる。
「話終わった? 俺、飽きちまったんだけど」
短く呻いて腰に当てた手を下ろし、ため息をついた。
黒いつま先がプルメリアを持ち上げる。
「お喋りしに来たわけじゃねえだろ? ヤりたきゃヤればいいだけの話じゃん。
誰がなんて言ってるかなんざ関係ねえよ」
俯き加減で髪が滑り落ちた向こうに見える、不敵な笑みが浮かぶ顔。
真雪の右手と遊ぶように周囲を回っていた光が次第に形を変えていく。
細かい粒子を撒き散らしながら舞う蝶の姿へと。
「殺さなきゃ殺されるってな」
漆黒の闇の中で笑いを含んだ声が呟いた。
「少なくとも俺はアイツをぶっ殺すつもりだ。お前が殺す気があろうとなかろうと」
差し伸べた指先に蝶が止まり、羽を休める姿を見つめる。
アブソルートはその様子を黙ったままで眺めていた。
顔を上げた拍子に視線が合う。
「第一、そんな簡単に捕まえられると思ってんの?あの死にぞこないを」
「……確かに」
鎌の柄で肩を打つ度に刃がきらめく。
渋い表情のままで顎を引くように頷くと、目の前に立ちはだかる死人に視線を投げる。
「命じられたのは彼の者の逮捕のみ。
無傷が条件ではない故、奴の手足が一本や二本なくなった所で問題はないか」
右足がわずかに後退した。
悟られないように体の重心を落とし、身構える。
「もっとも」
チャリオットの動作を見逃すまいと凝視する視線。
「この場では何が起こるか分からぬ。我の意思とは別の、予想外の事態もありうる」
「ああ。例えば手が滑ったり?」
「応」
アブソルートの答えに、真雪が笑いながらチャリオットに顔を向けた。
髪をかき上げる動作。
滑り落ちる音が響きそうな程静かな空間の中で。
「良かったな、チャリオット。遊んでくれるお友達が増えて」
ドアの隙間から入り込んだらしい微風が死臭に満ちた空気をかき回した。
頬を撫でる感触に目を細めるように笑う。
「2人より3人の方が気持ちよくなれるかもな?」
間合いを取ろうとしているのか真雪が数歩後ずさる。
靴音だけが不気味に響いた。

「楽しもうぜ。今度はイカせてあげるからさ」

死人を一瞥した後、真雪が後ろへとジャンプする。
それと同時に走る黒い影。
チャリオットに向かって銀色の光が横へ薙ぎ払った。
鋭い音がぶつかり、視界に火花が散るような錯覚を覚える。
避ける事を見透かしていたアブソルートが間髪いれずに大きく一閃。
黒いフードの下、アブソルートが笑った。
息をつく間も与えない攻撃を紙一重で避けていく。
けれど、アブソルートには見えていた。
「死人は大人しく棺で眠っておれば良いものを」
後方から聞こえる真雪の鼻歌を聞きながら呟く。
チャリオットは防御をするばかりで、攻撃を繰り出そうとしない。
口が開いたままの所を見ると、疲労が蓄積しているのだろう。
反応が徐々に鈍くなっている気がする。
「眠る事すら許されないのだよ、俺には」
「誰が起こした?」
「さあな。世界か、もしくは狂気という名の神か」
荒い呼吸の中で半笑いの声が答えた。
切っ先が赤で濡れる。
衣のように散る飛沫と漂う生臭い血の匂い。
チャリオットが床に手を付いてしゃがんで防御した先。
アブソルートのすぐ近くを風を伴う青白い光の残像が通り過ぎる。
なびくコート。
風を感じた瞬間、チャリオットが何かによって引きずられるように後方へ吹き飛んだ。
部屋全体を揺らす轟音の中、スローモーションで花が舞い上がる。
後方で真雪が笑っている声が聞こえた。
花と埃越しに見える膝をつくチャリオットの姿。
外からのほの暗い光に照らされた口元には一筋の血が滲んでいる。
アブソルートが武器を持つ手を途中で静止させた。
硬直したまま動かない。

鼻歌が止まった。
3人を包むのは静寂。
今までの静寂とは違う、不穏な空気が立ち込めている。

今まで真雪の顔に浮かんでいた、楽しげな色は消え失せ。
警戒したように唇を噛んだまま視線を周囲に走らせた。
そして、動きが止まる。
チャリオットを見た瞬間に。
「……誰だ、お前」
そこにあるのは赤い斑点と、死んだような景色。
今までと変わらないようにも見えるが。
真雪には何かが見えているように一点を睨んでいた。
「いや、さっき会ったよな?」
誰も微動だにしない。
聞こえるのはチャリオットの苦しげな呼吸と、衣擦れの音。
そして。

「またお会いしました、エニグマ殿」

聞こえた声に視線を向けると。
何もなかったはずのチャリオットの隣に白い人影が立っていた。
些細な変化も見逃さないほど凝視していた筈だ。
思わず息を飲む。
「いえ、シノノメ殿とお呼びしましょうか」
白い羽織袴に同色のマント、そして薄いベールを頭からかぶって笑みを浮かべていた。
それはまるで月の光に溶けてしまいそうな印象さえある。
男にも女にも見える姿は、声のイメージそのままだ。
真雪はいぶかしげに視線を投げ、右手に神経を集中した。
「誰だって聞いてんだよ。何のつもりだ、お前」
「そうお怒りになりますな。チャリオットが貴方様にご無礼を働いていないか心配になり、
ご挨拶がてら様子を見に来ただけにございます」
この口調と声は間違いなく一階で会った、姿の見えぬ者だ。
眉をひそめ、相手を観察する。

目に見えていながら幻なのではないかと真雪は疑いたくなった。
掴み所がなく、まるで流れる雲にも似ている。
殺気を感じなければ緊張感もない。
だが、体の内側では絶えず警鐘が響いていた。
目の前の死人の仲間である事は明白だが彼は何者なのか。
スキルを撃ち、チャリオットもろとも倒す選択肢もあるが――何故か直感がそれを拒む。

「御仁、無闇に得体の知れぬ者を討とうとするのは控えた方がよろしいかと」
目を細めたままで白い者はアブソルートに視線を向ける。
唇は微笑を浮かべているが、目は鋭さが宿っていた。
アブソルートの舌打ちが聞こえる。
それでも、彼が隙を狙っているのは武器を構えている姿勢から分かった。
「ああ、自己紹介を。私は周囲の者からミロク、トリプルシックス等と
呼ばれている者でございます」
わずかに膝を曲げ、胸元に手を当てる仕草。
「チャリオットの友人という事にしておきましょうか」
「つまり俺の敵っつーことだよな? それなら話が早い」
真雪が天井に手のひらを向け、光の球を生む。
風が唸りを上げる音が広がった。
指の隙間から血が伝い落ちるのも厭わず、チャリオットと寄り添う
ミロクと名乗った白い者を睨みつける。
それでも、強い視線を向けられた相手は表情を変える事はなく。
笑う口元。
「貴方様はご自分を何者か、分かっていらっしゃらない」
「何だと?」
「それとも分かっている上で全てを壊すおつもりか」
「どういう意味だ、てめえ!」
強い口調で吐き出された問いを笑顔で交わす。
口に指を当てて相手の反応を楽しんでいる風でもあり。
真雪は自分の手のひらに生まれた光を握りつぶした。
瞬間、ガラスが砕け散ったような音が響く。
震える拳に血の筋が出来、等間隔で赤い雫が滴り落ちた。
「それはご自身にお聞きくだされ、シノノメ殿」
返答を待つような沈黙を破る。
不意に。
ミロクの視線が傍らへと移った。
そこに居るのは額から流れた血が目に入る事も気にせず、正面を見据えるチャリオット。
息切れこそしているものの、その顔から戦意は消失していない。
その証拠に目は飢えたような光を放っていた。
「……逃がすわけにはいかぬ」
何かを察知したらしいアブソルートが低く呟く。
闇と同化した風貌。
武器を握り締めると、わずかに金属音が聞こえた。
「犬畜生に何が出来ましょう?」

刹那。
視界に硬質な光を放つ残像が横切った。
アブソルートがミロクめがけ、鎌を力任せに振り上げる。
切り裂かれるように空気が大きく動き。
それと呼応するように生じる風。
真雪の手が淡い光を放ち、そこから生まれた光は球の形をなし
花を散らしながら真正面へと駆ける。

壁が、ドアが、窓が轟音に震えた。
闇の中で埃が舞い上がり、煙幕のように広がって視界を奪う。
真雪とアブソルートの狙いはただ一つ。
だが。

「何をしているのです」

次第に鮮明になる視界で聞こえた小さく笑いを漏らす声。
そこに立っていたのは。
「きちんと狙いましたか?」
鎌の刃を親指と人差し指でつまんで受け止め、数秒前と同じ位置に立って微笑むミロクだった。
「な……っ!」
「『得体の知れぬ者を討とうとするのは控えよ』と忠告はしましたぞ」
スキルは外れていなかった。
アブソルートも攻撃もまた、指で受けられるほどの速さでも力でもない筈だ。
しかしここにある、ミロクは無傷だという事実。
真雪は唇を噛んだまま、笑う顔を睨んだ。
どこかで聞こえる夜の住人のものと思しき声を聞きながら固まる。
「さて、チャリオット」
窓の外を一瞥したミロクが口角を上げ、つまんでいた鎌を振り払った。
「楽しいゲームは終了です。敗者は舞台を去りましょう」
「コイツ等はどうするつもりだ」
「どうしましょうか。もっとも私はどうする気もありませぬが……」
チャリオットに手を差し伸べ、肩をすくめながら目を細めて笑う。
その顔は真雪へと向けられた。
無意識のうちに嫌悪で顔が歪み、奥歯を噛み締める。
漂う不気味さ。
読もうとしても相手の感情も、意図も分からず。
「シノノメ殿。此岸と彼岸の追いかけっこは貴方様の勝ちです」
ふらつきながら立ち上がったチャリオットに肩を貸し、寄り添って笑う。
「姫君の救出、おめでとうございます」
「逃がすワケにはいかねえな。決着は付いてねえし、俺はそいつを殺すって決めたんだ」
「ええ、決着は付いておりません」
歯軋りの隙間から漏らした言葉に軽く頷く仕草。
思い出したように死臭を感じた。
声だけが響く、探り合いの中で。
「今度はヨイ殿と二人で是非、私達の城へおいで下され。良い所ですよ」
「誰がてめえの……!」
「小鳥はさえずり、花で溢れた楽園にございます」
語尾が遠ざかっていくのを感じた。
気付けばチャリオットとミロクの足元が徐々に消えているように見える。
「させるか!」
怒号と共に放たれるスキル。
けれどそれは目の前の人物をすり抜け、壁にぶつかった。
最後に見えたのは笑みを浮かべる顔と白いベール。
何事かを言ったらしい声は衝撃音にかき消される。

校舎全体に轟く地響き。
跡形もなく消えたチャリオットとミロク。
それと同時に黒い影が駆け抜けるのが見えた。
消え行く死臭。
花の白さばかりが目に焼きつく。

真雪は肩で息をしながら正面を睨み続けていた。
時折、視線を注意深く周囲に巡らせるが室内にあるのは自分の気配のみ。
アブソルートの声と、廊下を駆ける足音が遠ざかっていくのを聞きながら。
「……ターゲット消失」
舌打ちと共に呟く。
「どいつもこいつも殺してえ野郎ばっかりだ。ヤってる最中に逃げやがって、クソが」
『チャリオットが逃げた、と? 一体……』
「1階で会ったムナクソ悪い野郎だよ。アイツが出てきて消えやがった」
傷がうずくのも忘れ、握り締める。
窓から差し込む光が死神のシルエットを浮かび上がらせた。
プルメリアの上に落ちる、長く伸びる影。
再び静寂が訪れる。
『とりあえず彼女を助け、任務は完了した。
僕らはチャリオットの討伐が目的だった訳ではないだろう?』
「俺はアイツを殺さなきゃ気が済まねえ」
『今はラプターが最優先事項だよ。
僕らは車を取ってくるから君はラプターの側にいてあげてくれないか』
名前に反応した真雪が表情をわずかに緩めた。
反射的にインカムに視線を向ける。
「ヨイは?」
『隣の教室に退避中だ。眠っているよ。苦しそうにしているけれど』
ノイズ混じりのダンデライオンの声にため息を漏らした。
重い足取りで部屋を横切っていく。
『とにかくラプターと一緒にいてくれ。決して動かないように、いいね?』
釘を刺す声と同時にドアが開く音がフロア全体に響く。
不意に何かを思い出したように真雪が立ち止まった。
俯いたままの顔が持ち上がり、固まる。
数秒の間の後再び歩き出す。
残されたのは殺気と不安の残骸の残る部屋のみだった。



白い花ばかりを見ていたせいだろうか。
中央に美冬が寝かされている、この部屋は妙に薄暗く感じた。
床に線のように点々と落ちた染みは真雪の血。
机も椅子もなく、ただ四方を壁に区切られた殺風景な空間に2人はたたずむ。
黒いジャケットがかけられた美冬は時折、表情を歪ませながらも硬く目を閉じていた。
「……ヨイ」
小さく呼びかけた声が不気味なほど大きく聞こえる。
美冬の傍らであぐらをかいていた真雪が、膝をつき四つん這いになった。
動いた唇が発した言葉を聞き取ろうと耳を寄せて。
「可愛い顔で寝ちゃって」
顔を覗き込み、微笑む。
血で濡れた右手で頬に触れようとして空中で止まった。
わずかな逡巡。
小さく息をもらしながら肘をつき、間近で見つめる金色の瞳。
「おはよう、ヨイ」
影が一つになった。
真雪が顔を美冬に沈めると唇を重ねる。
その数秒は長い時間のように。

不意に、美冬の指が大きく震えた。

その震えが肩に移動し、目蓋が持ち上がる。
驚いたように何度も目を瞬かせていた。
戸惑い、揺れる瞳。
「……本当にキスで目ェ覚ますモンなんだな」
気配に気付いた真雪が笑いながら顔を離し、目を細めた。
髪を撫でる左手。
その感触に美冬は目を細めながらも頬を紅潮させ、視線を落ち着きなく彷徨わせる。
「え、あの。ま、まゆ……」
何か言いたげに唇を動かした後、呆気にとられたまま美冬が言いかけるが。
その表情は何かを見つけたように警戒感をあらわにした。
「大丈夫か? 怖かっただろ」
「……違う」
力なく美冬の手が真雪の胸を押し返そうとする。
彼はその手と間近の顔を見比べた。
「貴方、真雪じゃない。誰?」
「何でそういう事言うんだよ」
「だって、違う。あたしの知ってる真雪じゃない。目の色も、雰囲気も違うもん」
真雪は自分を見返す目の中に微かな敵意を見つけ、表情を曇らせた。
眉間にしわを寄せたまま言葉を選ぶように黙る。
そして、ややあって。
「俺は真雪。真雪であり、シノノメ。お前が一番知ってて、お前を一番知ってる」
「……シノノメ」
「そうだよ、ヨイ」
その言葉に美冬が動きを止めた。
脳裏に浮かぶのはチャリオットの言葉、そしてエニグマと言う単語。
耳の中で声が蘇る感覚に思わず顔をしかめる。
「あ、あの。あのね、突然死とチャリオットの……!」
わずかに慌てた調子で切り出した美冬の言葉を、真雪が首を振って遮る。
その様子に薄く口を開いたまま。
「後で聞くから。今は喋らなくていい、そんな事」
「でも」
「それより痛いところは? 怪我してねえか?」
美冬の上に覆いかぶさる格好のままで問う。
硬いフローリングの床の感触と、視界の端に見える月影。
「ううん。でも……」
「ん?」
「怪我してないんだけど何だか右手が痛いの。全然力が入らなくて」
痛みで歪む顔に真雪が顔をしかめた。
軽く息をつき、唇を噛む。
「悪い。それは俺のせいだ」
視線が美冬の顔の横に向けられる。
その先にあったのは血だまりと真雪の右手。
促されるように顔を向け、美冬が慌てふためきながら真雪の腕を掴んだ。
何度も顔と手を交互に見比べる。
「エニグマは感覚とか痛みも共有するから。痛いだろ、ごめんな」
「そういう問題じゃない! どうして!? 怪我ひどいじゃん、早く血止めなきゃ!」
「こんなの怪我のうちに入らねえよ。お前が無事ならいいんだ」
「バカ、なに言って……! 手当てしなきゃダメだよ!」
怒鳴る声に苦笑が漏れた。
真雪は左手をついて体を支え、美冬の顔の前に右手を出す。
密着する体に顔を赤らめ、
顔の前にある赤く染まる右手に戸惑いの視線を注いだ。
「じゃあ、舐めて」
「え?」
「舐めてよ、ヨイ。そしたらすぐ治るから」
時間が止まる。
美冬が今にも泣きそうな表情で息を殺し。
無言の中で戸惑いと迷いが見えた。
温度を感じない風が通り過ぎる。
「……や、やっぱり今日の真雪変だよ……」
消え入りそうな声が呟いた。
おそるおそる、ぎこちない動作で口を開けると舌をわずかに出す美冬。
上目がちに伺う視線と微笑む視線がぶつかり、溶ける。
真雪は美冬の口に右手の人差し指を差し込んだ。
「すごいドキドキしてるだろ? こっちまで伝わってんぞ」
覗き込む視線に耐えられなくなり、目を伏せる。
「かわいい、ヨイ」
「……んく。ふ……」
唇で指に付いた血をしごき取ろうとするかのように口をわずかにすぼめる動作。
口の中では戸惑いがちに舌を指に絡め。
「ヨイは」
その言葉と共に口の中に忍び込んでいた指が抜かれた。
反射的に顔を見つめ、そのままそらせなくなる。
「俺のもの。手ェ出す奴は許さない」
そう言いながら首を傾げるように自分の下に寝転ぶ彼女の耳元に顔を埋め、頬に唇を当てた。
唇の感触が首筋へと降りていく感覚に、美冬は体を縮める。
無意識に硬く目を閉じていた。
「なあ」
降り注ぐ声に目を開けると、鼻先の触れる位置で自分を見つめる顔がある。
言葉を紡ぐ度に肌に息がとまった。
「誓いを立てよう」
「ちか、い?」
「そうだよ。もう二度と離れないように」
顔が離れ、美冬の左手を取ると薬指に軽く口付ける。
悪戯っぽく笑う顔。
手が赤く染まるのも気にする余裕がないほどに、鼓動が早まっていた。
瞬きも忘れ、時間も状況も全てが消えてしまったかのように。
「それと」
もう一度、顔が近づく。

美冬は金色の瞳に恐れや疑いを持つ事はなくなった。
そして、以前から知っていた気がする。
共有する景色や感覚を。
流れ込む感情を。

「お互いは、お互いのものであると」

真雪は笑っていた。
影が美冬を覆い、触れていなくても体温を感じる唇。
シルエットが同化する。


瞬間。


突然、真雪が引きつった声を上げると同時に大きく震えた。
その拍子にぶつかる額同士。
痛みに美冬が言葉にならない声を出す。
「ふ、あああ!? ちょ、あれ!? いや、待て! なん、なんだこりゃああ!?」
「……いっつぅ」
「あれ!? 俺何やって……うぉ、美冬! 大丈夫か!? いや、違う! あの、俺!」
勢いよく顔が離れた。
呆気に取られている美冬をよそに真雪は赤い顔のままで動揺をしたように周囲を見渡す。
落ち着きのない動作と、何度もつっかえる言葉。
そこに冷静さは微塵も感じられず、普段とはまるで別人だった。
真雪の声だけが室内にこだまする。
「ごめん! 俺、意識ふっ飛んでて! どうせなら……いや違う、ごめんマジで!」
冷静になろうとしているのか何度も髪をかきあげていた。
視線は一向に美冬を見る事なく、窓の外や壁を見る。
「本当にごめん。つーか、退かなきゃ……」
そう言って軽い唸り声と共に体をはがそうとした真雪を止めたのは。
ジャケットを掴む美冬の手。
床に寝たままの状態で、笑みを広げていた。
「やめちゃうの?」
真雪の動きが止まる。
頭の中で言葉を繰り返しているらしい。
赤紫色の瞳が驚いた色を滲ませたままで見つめた。
「……やめちゃうのって、何をだよ」
「分かってるくせに聞くんだからな、この人は」
自分を見下ろす顔に笑みを向ける。

「ちゅう、してくれないの?」

悪戯っぽく瞳を覗き込まれ、小さく息を飲んだ。
遠くで木々がざわめく音が聞こえる。
視界の端に見える闇の中で夜景が浮かび上がって見えた。
そらした視線をもう一度、美冬に戻すと。
左腕を床につけて顔を近づけた。
額同士を合わせて、どちらからともなく笑う。
声を押し殺し。
「……本気にしていい?」
額を離すと笑いを引っ込めた真雪が尋ねた。
頷く気配、近づく顔。
美冬の手が真雪の背に回される。
その感触に微笑む、2人で。
一つにつながる黒い影。
音のない景色の中、言葉もなく。


「帰るぞ」


突然、足元の方からの雷のような大きな音が沈黙を破った。
それは勢いよくドアが開かれたものらしい。
声の主は聞き覚えのある深く低い声。
黒い瞳が室内の中央に寝そべる2人を睨むように見つめ。
「部屋を間違えた」
その声と同時にドアがもう一度、叩きつけるように閉められた。

真雪は美冬の肩に顔をつけ、力なくうなだれたまま動かない。
なだめるように後頭部を軽く叩く手の感触に小さく頷いた。
「……俺、なんかもう色々とダメだ……」
弱々しく吐かれた言葉に美冬が苦笑を顔に広げる。
顎を持ち上げ、逆さまの夜景を眺めた。
見えるのは出口を示すような月。
その明るさに目を細め。
自分の上に寝そべる真雪の感触と重みを感じながら。


『こちらウォークライ。3階教室にてラプターと水揚げされたマグロを発見。
これより捕獲し、帰還する』
「マグロじゃねえ!」
「……さすが、うーちゃん。空気読んでんだか読んでないんだか」

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