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14. 追憶――朔夜

終電間際の緑が丘駅。
誰もいないのではないかと思うほど閑散としており、人影は見えない。
美冬が階段を上る音だけが大きく響いていた。
見慣れた場所であるはずなのに何故か違和感を感じる。
背中に感じる視線。
きっと真雪は改札の方へと向かう美冬を見ているのだろう。
死亡宣告を終え、体調が悪い彼は立っているのも辛いはずなのに。
「真雪」
突然立ち止まった美冬は何かを考えているような間の後、ゆっくりと振り返った。
こわばって見える表情にぎこちない笑みが浮かぶ。
その先にあるのは、不思議そうに見つめ返す真雪。
二人の間を構内放送が通り過ぎた。
「ありがと」
口にしてから、その言葉の意味を考える。

無意識に突き動かされた。
――もしかしたらこれが最後なのではないかと。


長く伸びる土手の遊歩道に響く、一つの靴音。
ほぼ毎日この道を歩いているはずなのに暗闇に支配された今は、まるで別の景色に見えた。
遠くから水の流れる音が不気味なほど静かに忍び寄ってくる。
日中ならば、ゆっくりと流れる川とそこを渡る風、開放感のある景色を楽しめる
格好の散歩コースだが、今はただ恐怖心を煽る夜道でしかない。
「……」
ヘッドホンをつけた美冬の唇が小さく動き、
風の音で消されそうな程の声で歌を口ずさんでいた。
瞳が何も見えない遠くを見つめる。
等間隔で並ぶ外灯が、まるで道しるべのように見えた。
けれど、彼女の足はそれに抗うように。
川の近くへと下りる階段に誘われるがまま、向かっていた。
呼ばれたとでもいうのか。

思い出すのは数十分前の眠りの時間。
草の海の中で歌う死神の夢を見た。
偽り色の空、頬に触れる命の香りのする風を鮮明に感じ。
今、目を閉じても容易にそれを思い出すことが出来る。
何かが駆け巡るように鳥肌が立つ感覚を覚えた。
あれは一体、何だったのだろう。

美冬は全てが闇に溶け、同化した景色の中でたたずんでいた。
ある程度舗装されてはいるが周囲を囲むように草が生い茂る場所。
すぐ近くから聞こえる水音に心が揺れるのが分かる。
「圭一、来たよ」
ヘッドホンをはずし、向こう岸を見つめる顔。
美冬にとって、この場所は幼い頃からいつも見ている景色だった。
この場所に立つ事を禁じられ、訪れる度に様々な感情で押し潰されそうになりながらも
まるで償いの行為であるかのように何度も足を踏み入れる。
微笑もうとするように口の端を上げてみせるが表情はこわばったままだった。
俯き、そこにあるはずの水面を見つめる。
「来るなって言われそうだけど会いたくなった」
独り呟く声は静寂に飲み込まれる。
時折吹く風、遠くから届く高速道路からの騒音が孤独感を加速させた。
自分だけが取り残され、世界で一人ぼっちであるかのように。
「会いたいのに夢の中にも出てきてくれないね」
隣に、泣きじゃくる幼い頃の自分がしゃがみこんでいるかのような錯覚。
薄れたはずの記憶は蘇り、過去へと引きずり戻される。
掻きむしりたくなる衝動と叫びたくなる記憶。
忘れる事が出来たらどんなに楽だろうと思う反面で、それを拒んだ。
美冬は痛みに耐えるように胸元のシャツを掴むと硬く目を閉じる。
肩が小さくわなないていた。

「願えば会えるものだ」

前触れなく聞こえた、間近の男の声。
戦慄の中で息を飲んだ。
聞き覚えのある声に驚き、動揺する。

何故、どうして、一体。
迂闊だった。

心の中にいくつもの言葉が浮かぶが身体は縛られたように動かなかった。
今まで感じることのなかった死臭が鼻をつく。
雨の匂いのする重く、湿った風も音も消えた。
ここにあるのは自分と――チャリオット。
「何で、あんたが」
凍りつく身体を無理に動かし、顔を恐る恐る後方へ向ける美冬。
その顔に警戒感がはりつく。
「探していたのだ」
「ふざけないでよ」
「お前が一人になる機会を窺っていた」
視界の端でチャリオットが笑っているのが見えた。
何故だろう、闇の中だというのにその瞳が鮮やかに赤い光を放っているように。
宿る狂気に身体が反応し、震える。
どんなに押し殺しても湧き上がった、恐怖心が。

美冬は自分の危機感のなさを悔いる。
考えれば、この状況だって想像できたはずで警戒するべきだった。
タクシーを使えという真雪の言葉を笑い飛ばさずに、大人しく従えばよかったと。
チャリオットと自分以外、人影はなく。
しかも自分は彼と対峙出来るような状態ではない。
不利だ、完全に。

「お母さんに言われなかったか?」
背中にチャリオットの気配を感じた。
耳元に唇を寄せているのだろうか、血の混じる死臭の中で笑いを含んだ声が聞こえる。
足が、全身が動かず。
唇を噛む。
唯一自由が利く瞳だけを動かして、背後を睨んだ。
「『夜の一人歩きはやめなさい』」
武器を収納している真紅の手袋はジャケットの中。
どんなにすばやく動いても、チャリオットの動きよりも早く動けそうもなく
気付かれないはずがない。
動けば必ず一撃が来る。
人気がないとは言え、すぐ近くに民家もある。
ここで戦う事は――

「『さもないと、怖いおじさんに連れて行かれるわよ』って」

その言葉と共に。
チャリオットが動く気配を感じた。
美冬は咄嗟に離れようとしたが首を凍える冷気が掴む。
足元から脳天まで一気に寒気が駆け上った。
恐怖心。
動けば命はない、動かなければ死ぬ。
喉を掴まれた状態からどう逃れようというのか。
「あ、ぐ……!」
「危機感がなさ過ぎる。女としても、チェイサーとしても」
死人は笑っていた。
そして、その直後。

抗う事も許されず、美冬の視界は暗くなった。



寝返りをうった瞬間、感じたのは。
固い床の感触と瞼の裏に浮かぶ光の気配。
目を閉じているにもかかわらず、光は目を刺そうとしていた。
「ん」
美冬は短く呻くと薄く目を開けた。
目の前には何も置かれていない、広いだけのフローリングの床がある。
薄日に照らされて輝くのを呆然と見つめた。
覚醒しきれてない意識の中、痛みで脈打つ頭を押さえて上半身を起こす。
そこで気がついた。

自分に掛けられたモスグリーンの軍用コート。
淡く漂うプルメリアの香り。
殺風景で何もない、壁と床だけの空間。

「……ここは」
あたりに視線を巡らせる。
大きな一面の窓の外に広がっているのは押しつぶそうとするかのような厚い灰色の雲と
その隙間から差し込む金色の光。
ここは何階なのだろうか、いつも見える景色よりも高い気がした。
「このコートって」
見覚えのある色とシルエットのコートをつまんでいぶかしげに見つめる。
そこから漂う死臭に、美冬の中の仮定が確信に変わった。
けれど。
「お目覚めか、姫君。ずいぶんと寝ていたな」
引き戸の開く音に続いて分厚い靴音が近づいてくる。
歩く度に聞こえる金属音はおそらく軍用ナイフが何かとぶつかる音だろう。
視線を上げるとチャリオットが美冬を見下ろし、口の端を上げていた。
「そう睨むな。どうだ? 目覚めは」
「最悪だわ」
はき捨てる声に笑い声が重なる。
美冬は目の前にしゃがみ、自分の顔を凝視する男を見据えた。
警戒感を全身から発散する。
後ろに手を付き、後ずさりながら身体をのけぞらせた。
「少しは食べておけ。人間は食わんと持たないだろう」
その言葉と共に二人の間に放り出された
見慣れたコンビニエンスストアのロゴが書かれた白いレジ袋。
ビニールのこすれあう音と重い何かが落ちる音が室内に響いた。
思わず、それとチャリオットの顔を見比べる。

美冬は戸惑っていた。
昨晩、彼に喉を掴まれた時は覚悟をしていたというのに。
一体この扱いは何を意味しているのだろうか。
死臭による頭痛以外は痛みもなく、怪我もしていないらしい。
衣類に乱れもなければ、取り上げられた物もないようだ。
一体彼は何を考えているというのか。

「ねえ」
渇いた口の中で唾を飲み込む動作をすると小さく切り出した。
「あんた、一体どういうつもり? 殺す気なら放っておけばいいじゃない」
「俺はそれでも構わないんだが」
不意に探るように見つめ合っていた視線が横へと逸らされる。
数秒の間を置いて、美冬がそれを追うように同じ方を向く。
見えたのは、開け放たれた引き戸の向こうを通り過ぎる残像。
硬質な靴音だけが廊下に幾重にも響いていた。
美冬の目が無言でチャリオットに問う。
「奴が許さないのだ」
その声は苦笑が滲んでいた。
瞳の奥には平静と狂気が同居する。
何かの拍子に攻撃を仕掛けてきてもおかしくはない、そんな雰囲気を感じた。
「どちらにしろ、姫君は丁重に扱わなければならない。それに見極める必要もあるからな」
「何を見極めるっていうのよ」
「お前が何者であるかだ」
チャリオットの手が美冬の頬に伸びかけるのを払いのける。
拒絶する手、表情。
美冬の眼光は今にも噛み付きそうな勢いにも見えた。
「あんたはエニグマだって言ってたじゃない」
「そう。そのエニグマの何であるかをだ」
「エニグマの……何である、か?」
今まで警戒感を解こうとせず、手袋が入ったジャケットのポケットに
突っ込もうとしていた手が動きを止める。
顔に浮かぶのは戸惑い。
その様子にチャリオットは一瞬驚きをみせたが、それはすぐに笑い声に変わった。
肩を揺らして天井を仰いで声を張り上げ。
ややあって部屋中に轟いた声は止み、顔は美冬を覗き込むように近づけられる。
美冬はその死臭の強さに何かを堪えるように唇を噛んだ。
「本当に何も知らないとは! 大事にされているのか、それとも腫れ物扱いされているのか」
向かい合った二人の間に前触れなく訪れた沈黙。
それは、お互い何かを考えている事を表しているかのように。
「いいだろう。まだ時間もある、お前にエニグマが何なのかを教えてやろうじゃないか」
「時間?」

「ああ。騎士殿が茨を掻き分け、姫君を助けに来るまでの」

今まで跪いていたチャリオットが彼女の前にあぐらをかいて座った。
膝の上に肘を乗せると頬杖をついて楽しげに瞳を細める。
四方を白い壁に囲まれた空間にいると、現実を忘れそうになった。
時間も状況も曖昧になりかけ。
「エニグマは二つで一つ。それが二つである限り永遠に一つになろうとする」
まるで歌のようだと警戒感も忘れ、美冬は心の中で呟いた。
何かの例えや冗談かとも思ったが目の前のチャリオットは笑っていない。
「片方はヨイ、片方はシノノメ。それが夜と朝であり、生と死だ」
「どういう意味よ」
「それはお前が一番知っているはずだ。そして嫌でも分かるようになる」
温度のない埃っぽい空気が漂う。
不気味なほど静かなこの場所で耳を澄ませても、沈黙の声しか聞こえなかった。
死人の肩越しに見える霞んだ都庁。
そして、それを守ろうとするかのようにそびえるビルの群れと。
「片方は死を撒き散らし、片方は刹那の生を与える」
「それがエニグマ?」
「そうだ。お互いは相手なしでは生きられない。それらは同じ意味なのだから」
不敵な笑みを浮かべながらチャリオットが言う。
まるで身体の奥からこみあげてくる笑みを隠せない様子で。

美冬は状況も逃げる事も忘れ、ただ呆然と言葉を繰り返した。
掴み所のない話だと混乱するのと同時に
自分の中のどこかで納得している部分もある。
何故か心が沸き立つのを感じた。
自分でも戸惑うほどに。

「姫君、聞くぞ」
気が付くとチャリオットの飢えた目が美冬を見つめていた。
動けないまま、無言で視線を返す事で答える。
「お前にとっての死とは何だ」
「……常に隣にあるもの」
「では、生は?」
「スタート地点」
答えに満足したように口を大きくゆがめて笑みを浮かべるチャリオット。
けれど、美冬は笑っていなかった。
「なら、あたしも聞くわ」
外に広がる雲は今にも泣き出しそうに見える。
隙間から見えていた光も灰色に飲み込まれていた。
「あんたにとって死って何?」
「息をするように自然なもの」
「生って何?」
「泣き叫ぶ所から始まる呪いだ」
数秒の間の後、美冬はため息をついた。
苦しげに首を横に振ると眉を寄せる。
座りなおしたときに生まれる、衣擦れの音さえ大きく聞こえる室内。
時は止まっていた。
ここは死んでいる。
「分からない。あんたの目的も、何でそこまでエニグマにこだわるのか」
「分かるはずもないだろう。それは……」
ゆっくりと吐き出される言葉。
その様子に不気味さを感じ、思わず身構える。

しかし、その言葉は吐き出される事はなかった。

チャリオットはまるで全身に電気が走ったかのように。
目は見開かれ、静止する。
震える手が喉を押さえた。
「な」
美冬はどうする事も出来ず、ただ驚いた表情のまま見つめる。


そして数秒後。
糸が切れたようにうなだれていたチャリオットが頭を持ち上げる。
そこには強い死臭こそあるものの妙な違和感を感じた。
息切れの中、全身で呼吸をするチャリオットの様子に不安を覚え。
自然と鼓動が高まっていた。
どんな、そしてどこから攻撃は来るのか。
どう動くのか。
美冬の視線がせわしなく動く。
手は無意識のうちにポケットに突っ込まれ、手袋を握っていた。
だが。

「……やっと、会えたな」
顔を上げたチャリオットは切れ切れの呼吸の中で
表情を歪ませたまま微かに笑う。
そこに狂気はなく、まるで別人のように穏やかだった。

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