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11. why not?

「メシおごるって言われて牛丼がいいって答えるかね、普通」
丼を持ったまま真雪が眉間にしわを寄せたまま呟いた。
「相変わらず安上がりだな」
「別にいいじゃん。急に食べたくなる時があるんだって。
それに牛丼屋さんって女の子一人じゃ入りずらいんだよ」
五条駅前、15時22分。
混雑のピークを過ぎ、人もまばらな牛丼店のカウンターで真雪と美冬は並んで
遅めの昼食をとっていた。
カウンターの中では手持ち無沙汰な店員が出入り口の大きなガラス越しに
行き交う人々を見ている。

美冬は牛丼を頬張りながら、牛丼店とはつくづく不思議なシステムだと考えていた。
誰とも向かい合う事なく、全ての客が肩を並べてカウンターで食事を取る。
食事を楽しむというより効率よく食べる事に重点を置いているのだろう。
気兼ねしなくて済む所は嬉しいが、どことなく味気なくも感じる。
現に会話をしているのは美冬達だけであり、店内で他に話している者はいない。

美冬がどんぶりを置き、水の入ったグラスに手を伸ばした所で視線に気がつく。
見れば隣に座った真雪が不思議そうに凝視していた。
「何?」
「いや、お前って女だったんだなーって」
「何それぇ!? ケンカ売ってんの?」
怒っている事を表すかのように腕を叩く。
不満そうに睨みつける様を見て、真雪は肩を揺らして笑った。
「てかさぁ、真雪」
「ん?」
「何で急にゴハンおごってくれるの? 何かあった?」
近くにたたずんでいた店員が声を張り上げたのにつられて、視線をドア付近に走らせる。
店に人が入ってくると同時に街の喧騒も流れ込み、にわかに賑やかになった。
そういえば今日は祝日であった事を思い出す。
「何でって……お前、最近元気ねー気がしたからさ。
とりあえずメシ食わせて元気にしとこうかと」
「へ?」
「ま、あんな事があったんだから無理もねえんだけど」
真雪は正面を向いたまま、美冬と目線を合わせる事なく言った。
漬物を咀嚼しながら何かを考えているように見える。
「しっかし、この漬物しょっぺーな。塩ききすぎだろ」
何かを誤魔化すように発せられた言葉に
小さく笑いながら店内のポスターに目を走らせる美冬。
真雪の方へ顔を向けた。
「何言ってんの、元気ないのは真雪の方じゃん」
「そうか?」
「そうだよ。まぁ、どっちかって言うと
事務所全体が元気がないって言う方が正しいかもしれないけど」
店内には軽快な音楽に合わせて、女性の声が新商品を宣伝している。
それが静かな店内が重苦しい雰囲気にならない原因の一つに思われた。
「おかしいよな。あいつら、絶対何か隠してるって」
「そうだね」
「先週の金曜に親父がエニグマの説明してたけどアレだってよく分からねえし。
抽象的な事ばっか言って肝心な事は一つも言ってなかったじゃねえか」
「だねぇ。微妙にポエムチックだったもんね、あの説明」
いらだった表情を浮かべる真雪とは裏腹に美冬が楽しげに笑う。
その様子を怪訝に思ったのか、箸を持つ手を止めて見つめた。
「お前、気にならねえの?」
「そりゃ気になるけど、教えてくれないんだから仕方ないじゃん。
言いたくない事を無理に聞くわけにもいかないしね」
箸をくわえたままで唇を曲げる。
視線はそのまま、窓の外の景色へ。
「あの人達の事だから気ィ遣ってるんでしょ。
うちらの事を思って言わないんだと思うよ。
あの様子だとエニグマは良い事じゃないって感じだし」
汁で色の変わった白米の上に載っている肉を口に入れると、嬉しげに目を細める。
「悩んだ所で何も分からないし、変わるわけじゃないからね。
あたしはあんまり考えない事にしたの。何かあった時に考えよっかなーって」
「そうか」
「それに、考えても答えが出ない事で悩むなって死んだじー様に言われてんのよ。
あたし4時間以上考えると具合悪くなるし」
それまで何処か呆然と隣に顔を向けて話を聞いていた真雪が急に吹き出した。
それを見て困惑したような表情を浮かべる美冬。
「悪い。いや、お前らしいなと思ってさ」
「何で笑うんだよぉ。こっちは結構マジなのに」
「さすがアホの子」
「ちょっとぉ、どういう意味―!?」
怒ったように腕を掴んで左右に揺さぶる。
その問いに答える事なく、ただ笑う顔。
自分以外は他人事といった風の店内で
真雪の笑い声と美冬の不満そうな声が響いていた。

10分後。
真雪は湯飲みに入った緑茶をすすりながら、カウンターに肘を乗せて
依然として牛丼を頬張る美冬越しに景色を見ていた。
街はゴールデンウィーク中で、どこか浮ついた空気を発散している。
それは、行楽日和という言葉が相応しい天気も関係しているのだろうか。
自分はそんな気分とは無縁だというのに。

思いをめぐらせるのはチャリオットの言葉とエニグマの話。
確かに美冬の言うとおり、考えない方が賢明なのかもしれない。
けれども仕方がないと分かりつつも考えてしまう自分がいた。
エニグマと呼ばれるジョーカーに例えられた何か。
自分たちがそう呼ばれた事を知った時の周囲の反応。
そして、チャリオット。
分からない事が多すぎて苛立ちすら覚える。
だからと言って何か知る術がないのは真雪自身よく分かっているのだが。

「そういえばさ」
現実に引き戻したのは、どこか嬉しそうな声。
「昨日テレビ見てたんだけど、ちょっとやってみたい事があるんだよね」
美冬が箸を持ったままで嬉しそうに宙を見つめていた。
真雪の動きが止まる。
大抵、彼女がこんな顔をして『やってみたい』という事はロクでもない事だ。
微量の嫌な予感を感じ、わずかに眉間にしわを寄せた。
「なんだよ」
「よくさ、バーとかで『あちらのお客様からです』って
マスターがお酒出すのってあるじゃん?」
「よくはねえけどな」
「あれ、やってみたいんだよね! 面白そう!」
はしゃぐようにカウンターの下で足をバタつかせている。
その様子を苦笑混じりで頬杖をついて眺める真雪は、軽く息をついた。
「お前ね、プレゼント交換とかじゃねえんだぞ? つーか、未成年だろ」
「そう! そうなんだ、問題はそれなんだよ」
小さく唸り、目の前の割り箸の入った入れ物を睨むように凝視して考え込む。
「でもね、やったら面白そうだと思わない?」
「面白くねえよ。第一、やられた方が迷惑するぞ」
「そうかなぁ」
唇を尖らせながら箸で丼についた米粒をかき集める仕草。
真雪は湯飲みに口をつけながら、開いた自動ドアの方へ視線を向けた。
動きが止まる。

「美冬」
小声で短く名を呼ぶ。
向けられた視線に、顎で示す。
「チャンスじゃん」
「え?」
「『あちらのお客様からです』」
真雪の言葉の意味が理解できずにいた美冬は、一瞬驚いた顔をしていたが。
彼の視線の先と顔を見比べているうちに合点がいったらしい。
「すいませーん!」
カウンター内の制服姿の店員と目が合う。
隣では真雪が手を挙げて挨拶しているのが見えた。
近づいてくるのは長身、黒髪を一つにまとめた黒いスーツの男。

「あの黒い兄ちゃんに牛丼特盛り、卵付き、肉多めで!」

美冬の甲高い声が店内に響き渡る。
周囲の視線が一斉に注がれたが、すぐに何もなかったかのように平静に戻った。
店員は呆気にとられた顔で美冬を眺めていたが、すぐに弾かれたように動き出す。
「よお、ウォークライ。お前もメシか?」
「オヤツだ」
周囲を見渡した後、美冬の隣の席に座ると呟くような声で言った。
睨むような視線が向けられる。
「お前達も?」
「いや、オヤツで牛丼は食えねえから。ちょっと遅い昼メシ」
ウォークライは、その答えに頷きながら
隣で機嫌よく身体を左右に揺らしている美冬を不思議そうに見つめていた。
ややあって、目の前に人の気配がある事に気が付いて顔を向ける。
何かを告げようと口を開きかけた時。
「お待たせしました! 牛丼特盛りと卵です」
遮る声と、目の前に置かれた丼。
怪訝そうに丼と店員を見つめる様子に真雪が身体をそらして笑っていた。
顔の横で手を振った後、美冬を示し。
「こちらのお客様からです」
その声に美冬が真顔で軽く手を挙げてみせる。
今まで怪訝そうな表情を浮かべていたウォークライは
うなだれるような動作を見せた後、声もなく笑っていた。

「良かったな、美冬。夢が叶って」
「うん!」
黙々と食べるウォークライの横で美冬は満足そうに口を紙ナプキンでぬぐっていた。
彼女の目の前には空になった丼がある。
「あたし、夢も叶ったし死んでもいいね」
「死ぬなよ」
「いやー、なんか違うような気がするけど満足だよ!」
「まぁ、カウンターで牛丼滑らせたら倒れちまうからな。満足で何よりだ」
感慨深げに頷いてみせる美冬の隣で、真雪も笑いをこらえながら頷く。
ふとウォークライの箸が止まった。
わずかに眉間にしわを寄せて向けられる顔。
「……そんなに俺に牛丼を?」
「お前に牛丼食べさせるのが夢ってどんなんだっつーの」
「愛されているな、俺」
「話聞けって」
二人のやり取りに美冬の笑い声が重なる。
穏やかな午後の日差しが笑うように窓の外で揺れていた。



ドアを開けると、そこにあったのは静まり返った空気。
まだ昼間であるこの時刻は比良坂事務所にとっては夜にあたる。
閑散とした室内は殺風景に感じた。
「あれ、ノクティルカいねえのか?」
真雪が髪を掻きあげながら辺りを見渡す。
その問いに答える声はない。
返ってくるのは静寂のみ。
「ううん、そんな事ないよ。ほら」
真雪のジャケットの背中の辺りを掴み、美冬が身を乗り出した姿勢で前方を指差した。
視線を向けるとディスプレイ越しに立ち上るタバコの煙と銀髪がわずかに見える。
「あ、ホントだ」
「また居眠りしてんのかな。んもー、タバコに火ィついたままとか危ないっての」
ぼやくように呟く声が靴音と共に部屋に響いた。
整然と並べられた事務机の島を回り込むように歩いていく美冬。
黒いスーツの背中は窓の方を向いたままで微動だにしない。
眠っているようにも見える。
「ノクティルカさんっ!」
美冬が背後から近づき、のしかかるように抱きつく。
楽しげな声。

突然。
弾かれたようにノクティルカが持っていた書類を膝の上に伏せた。
その行動のすばやさに眠っていないことを知る。
表情こそ見えないものの全身から緊張感に似た穏やかならぬ雰囲気が漂っていた。

「ご、ごめん! 大事な書類読んでた?」
慌てたように美冬が身体を離す。
けれど彼女は見てしまった、彼の読んでいた書類を。
それは英文で敷き詰められていたが上部に書かれた見出し部分だけが読み取れた。

report on the ENIGMA――エニグマに関する報告書

「あ、おかえりなさい」
椅子を回転させるとノクティルカは顔を上げて微笑を浮かべる。
その笑顔はいつものそれとは違う気がした。
どこかわざとらしい、作ったような。
「ノクティルカさん、どうしたの?」
「何がですか?」
「具合悪いの? ちょっといつもと違うみたい」
「そんな事はないですよ」
背に光を受け、表情は見えずらい。
視線を合わせてもすぐに反らしてしまうノクティルカを
美冬は心配そうに首を傾げて見ていた。
椅子を引くと聞こえるのは鳴くような小さな音。
かける言葉が見つからずに黙り込む。
何かを言わなければと話題を探すが、パソコンに向き直った彼を見ていると
まるで『話しかけるな』と言われている気さえ。
袖を引っ張ろうとして、伸ばしかけた手を止めた。

確かにこの数日のノクティルカは様子がおかしい。
黙る回数が増え、何かをずっと考えているようにもみえた。
ダンデライオンと二人きりで会話をしている姿を多く見かけ、
美冬や真雪にそれを知られたくないようで。
初めは単に仕事が多いだけだろうと思っていたが、それは違うと気付いてしまった。
いつからだっただろうか。
美冬は思い出そうとして、一つの答えに行き着く。
それはさっき見た単語。
エニグマ。

エニグマが彼を変えたのか?

「ラプター」
見つめられている事に気付き、我に返る。
美冬は言葉もなく顔を向ける事でその呼びかけに答えた。
「……いえ」
何かを言いかけて視線がさまよう。
開きかけた唇が再び硬く閉じられ、その様子に不安を覚えるが。
互いに言葉はない。
「すみません」
「なあに? 気になるよ」
「忘れて下さい。何でもないんです」
遠くから視線を感じるが、気にしている余裕はなかった。
問いたかった。
その謝罪の意味を、飲み込んだ言葉を。
美冬は見つめるしか出来ず、唇を噛んだ。
「レイヴンと遊んできたらどうですか?」
ノクティルカはディスプレイに視線を戻すとタイピングの音の中で言う。
その横顔からは表情が読み取れない。
美冬は何か言いたげな表情のまま曖昧に頷き、身を翻し。
遠ざかる靴音。
ノクティルカは彼女の背を一瞥すると、軽く息をついた。


「珍しいですね、ラプターから呼び出すなんて」
「ごめんね、仕事してたのに」
「構いませんよ。ちょうど気分転換をしようと思っていましたから」
美冬とノクティルカは屋上にたたずんでいた。
まだ夕暮れの気配も感じない空。
雲の隙間から見える空は不気味なほどに青く感じた。
風が強いせいだろうか、まるで水に流されたかのように雲が移動していく。

美冬はノクティルカに話を切り上げられた後も気になって仕方なかった。
聞いた所で納得できる答えが返ってくるとは期待していない。
おそらく話を誤魔化されて終わりだろう。
けれど彼の様子が気になる。
いつもと違うのはエニグマが原因なのか、それとも。
消化できない感情を抱いたまま、気付けば彼を屋上に誘っていた。

「少し気になっちゃったんだ。ノクティルカさん、最近変だから」
「変なのは前からですよ」
「そうじゃなくて!」
屋上の真ん中付近で向かい合い、たたずむ。
目の前でおどけたように笑うノクティルカに上目がちに軽く睨んだ。
真面目な話をしている、と伝えるように。
「なんかずっと考えてるみたいだし、普通に話してる時も上の空だもん」
「そうですか?」
「今だって目が笑ってない。怖い顔してる」
下の街路樹がざわめく音が妙に大きく感じる。
ここにあるのは、いつもと違う空気。
「ごめんなさい。今日見てた書類、ちょっと見ちゃった」
「……」
「エニグマなの? エニグマが原因でそんなに悩んでるの?」
問い詰めるように言葉を吐き出す。
ノクティルカは訴えるように見つめてくる美冬を
直視する事が出来ずに目を伏せた。
「ノクティルカさんが、ずっとそんな調子なのは心配だよ。
あたしエニグマとかよく分かんないけど、出来る事なら何でもするから。
悩まないでって言うのは無理かもしれないけど……」
「貴方はいつもそうですね」
不意に笑いが漏れる。
その笑みが何を意味しているか分からずに怪訝な表情を浮かべた。
スラックスのポケットに手を突っ込み、眩しそうに目を細める顔が向けられる。
「見てないようで、しっかり見てるんですから。本当に敵いません」
髪が風に巻き上げられる。
コンクリートに伸びる黒い影。
ここから見える景色はどれも生気がなく、生きている者が居る気配さえ感じられない。
孤立している錯覚に陥った。
「でも、肝心な事には気付いていない」
俯いた顔。
口の端が上がっているのだけが見える。
「え?」
「私の様子が変だとしたら……原因は貴方です、ラプター」

「隠し通すつもりだったのですが」

美冬は呆然と見つめるしか出来なかった。
見つめられ、目もそらせずに。
周りの音が消えていく中で、自分の中の鼓動だけは大きく響く。
その理由は分からない。
けれど、胸は高鳴っていた。
「見ているだけで満足だと思っていた。想いを告げれば貴方に迷惑がかかると思った」
動きが止まる。
指先でさえも動かせずに。
「でも」
ノクティルカは軽く首を横に振ると、ため息をついた。
「言わなければきっと後悔するでしょう。これからどうなるか分からないのですから」
向かい合い、瞬きも忘れた。
なぜか逃げ出したい衝動に駆られる。
けれど動けずに。
鼓動を抑えようとするかのように胸元を手で押さえた。

「私は今まで、生きる事など死ぬまでの暇つぶしだと思っていました」
淡々と紡ぎだされる言葉。
「でも、貴方に会って変わった」
抑えきれない笑みが溢れるように、ノクティルカの口元がわずかにほころぶ。
「貴方といるのが楽しくて、笑ってくれるだけで嬉しくなるんです。
自分でも不思議でした。どうしてなのか」
「……ノクティルカさん」
「それはあなたが好きなのだと気付きました。私は、貴方が好きなんです」

「一番近くにいられなくてもいいんです。ただ、好きでいる事を許してほしい」

頭の中が真っ白になる。
呆然と見つめたままで、美冬は薄く唇を開いた。
笑うノクティルカを見て思う。
もしかしたら、彼の満面の笑みを見たのは初めてかもしれないと。
事実が把握しきれていない一方で鼓動は早まったまま。
美冬は動揺していた。


「え、と……あの」
言葉を発するのに、どのくらいの時間を要したのだろう。
美冬は顔を紅潮したまま俯き、しきりに髪に触れる。
おそらくノクティルカはずっと美冬を見つめているらしい。
視線を感じ、顔を上げることはできなかった。
視界にうつるのはノクティルカの足元。
聞こえるのは街の息遣い、自分の心臓の音。
「えーと」
落ち着きなく視線を動かして状況を整理しようとする。
しかし、まとまるはずもなく黙ったまま。
「あのね、ノクティルカさ……」
「何も言わなくて結構ですよ」
意を決して顔を上げた美冬の唇の前にはノクティルカの人差し指。
見上げた視線の先で彼は微笑んでいた。
「ただ私は気持ちを伝えたかっただけですので。
すみません、驚かせてしまって」
ぎこちない動きで頷き、そのまま俯く美冬。
何故、顔を見ると穏やかでいられないのだろう。
息苦しさを感じる。
「さて、と」
言葉に詰まっていると頭上から聞こえた声。
それは、わざとらしく明るい声を出しているようにも聞こえた。
「所長から頼まれていた仕事を早く片付けなくては」
「え。あ、うん」
「では、一足先に戻りますね」
ノクティルカの手が美冬の頭に置かれる。
困ったような表情のまま見上げる顔に軽く笑みを浮かべて。
手が離れると同時に靴音が遠ざかっていく。
「あ、あの! ノクティルカさん」
ドアを半分開いたままのシルエットが振り返るのが見えた。
「……そ、その。あの、ありがと」
口ごもったように。
その声の大きさでは数メートル離れたノクティルカには聞こえなかったかもしれない。
美冬が言い直そうとしていると。
「お礼を言うのは私の方ですよ」
声は答える。
「ありがとう、ラプター」

殺風景で、命の感じられない雑居ビルに囲まれたこの場所で。
美冬はただ立ちつくしていた。

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