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03:distance

「うん、さすがノクティルカだな。仕事が早い上に正確だ」
書類を読んでいた所長――ダンデライオンが顔を上げて、
正面に立っているノクティルカに笑いかけた。
眉一つ動かさずに軽く会釈をする死神を一瞥して、再び目を紙面に戻す。
五十代半ばと思しき外見。亜麻色の髪を後ろへ流している彼もまた、
ノクティルカや真雪と同様に黒いスーツに黒いネクタイという風貌をしていた。
「やはり君に頼んでよかったよ。急に頼んで悪かったね、ありがとう」
「いえ、緊急で仕事が入ってくるのは慣れていますので」
「それは、いつも僕が無茶な仕事の振り方をしていると言いたいのかな?」
「そんな事はありませんよ」
ノクティルカはぎこちなく笑うとすぐに真顔に戻る。
ダンデライオンの席の前で直立不動の姿勢で佇んでいた。
後方から差し込む夕暮れが街だけではなく、比良坂事務所内も染め替える。
雲の隙間から覗く、目を射るような鮮やかなオレンジ色は
全てを非現実的な景色にした。
「仕事熱心なのも結構だけれど、休みはちゃんと取っているかい?
しっかり休むのも大切な仕事の一つだよ。根を詰めすぎて
逆に仕事に支障が出ては困る」
「はい、大丈夫です。きちんと休んでいます」
「分かっていると思うけれど、僕らは失敗が許されない仕事をしているんだ。
いつもベストの状態である事を心がけて欲しい」
穏やかな笑みを浮かべていたダンデライオンが表情を引き締める。
身体を正面に向けた拍子に椅子のキャスターが小さく鳴いた。
 比良坂事務所の仕事、それは『死神』
冥府より送られてくる死亡予定表と実際の生死を照合して
辻褄を合わせる事を生業としている。
死亡予定日を過ぎても尚生きている者を病死という形で処理し、
予定外の死を迎えてしまった者を復活させるという。
その名の響きと喪服のような格好から彼等を誤解する人間は多く、
人外生物や非合法行為が日常茶飯事の此岸の中でも死神は特異な存在だった。
「特に君とレイヴンはチェイサーとしても動いてもらっているからね。
仕事が多くて大変かもしれないけれど、自己管理はしっかりやってもらいたい」
「はい、分かっています」
前触れなく、外のスピーカーから定時を知らせる放送が大音量で響き渡った。
それは二人の会話だけでなく、パチンコ店の音楽や喧騒を飲み込む。
音声は周囲の店舗や雑居ビルの壁にぶつかりながら、幾重にも反響していた。
「ああ、ノクティルカ」
「はい」
「これは仕事と直接関係のない話なのだけれど」
数秒の間を空け、ダンデライオンが軽い咳払いの後に
躊躇う様子を見せながら切り出す。
瑠璃色の瞳が周囲を見渡した。
心なしか声が小さくなる。
そんな事をしなくても他の人間は聞いていないと思うのだが
――様子を怪訝に思いながら、ノクティルカは心の中で呟いた。
「ここ数日レイヴンの様子がおかしいのだけれど、何か思い当たるふしはないかな?」
ノクティルカの動きが止まる。
ダンデライオンはノクティルカの背中越しの何かを眺めた後、彼を見た。
向けられているのは平静を装いながら探る視線。
それを分かっていながらも、心の中に生じる微量の動揺を隠す事は出来なかった。
まっすぐな視線に耐え切れず、眼鏡の奥の瞳は窓の外を眺める。
「どうも、いつもと様子が違う気がするんだ。
基本的はいつもと変わらないのだけれど、何かの拍子にボーっとしていたり
考え込む回数が多い気がしてね」
「そうですか。それに関して、私は何も」
「ふむ。まあ、彼もいつまでも子供ではないしプライベートまで
口を挟む必要はないのかもしれないけれど、少し心配になったものだから」
「必要なら彼から相談されると思いますし、今は放っておくのが
一番なのではないでしょうか。彼自身、あまり首を突っ込まれるのは
快く思わない気がします」
そう言ってぎこちない笑みを浮かべると会釈をしてダンデライオンに背を向けた。
外は夕方特有の忙しない空気が漂っているが、この部屋には不気味なほど静かだ。
自分の席へと向かう靴音が妙に大きく聞こえる。
ダンデライオンは何もかも知っていて、あんな事を言ったのではないか。
ノクティルカは溜息をつきながら思い耽っていた。
真雪の様子がおかしい事に気付かないはずがない。
気持ちを告げた日以来、彼はまともにノクティルカを見る事が少なくなり、
どこかよそよしくなった。
自分が原因である事は確実で、避けられている事は明白だ。
だが、それを解決する手段が見つからない上に
ノクティルカ自身も今まで同様に彼に接する事は難しく思えた。
「……カ、あのさ」
聞こえた声にノクティルカが我に返る。
どうやら自分の席の前で突っ立ったまま、ボンヤリとしていたらしい。
気が付くと、隣の席に座る真雪が恐る恐るといった風で声を掛けていた。
視線が合ってもすぐにそらされる。
夕日に染まった顔は気まずそうな表情を浮かべていた。
「あ、すみません。何でしょう?」
「あー……あの、報告書の件。ミス直してくれてありがと。
ごめん、手間取らせちゃって」
「いえ、気が付いたのでやっただけですから。一箇所、二箇所程度でしたし」
「でも、うん。ごめん」
机の上に置かれた書類を落ち着かない動作でまとめながら口ごもる。
真雪は視線を落としたままで、顔を上げようとしなかった。
視線が彷徨う。
「そういえば、今週末期限の冥府に提出する書類はどうなりました?」
「……あ」
「数字は私の方で記入しておきますから、書類の方を一旦お借りしていいですか?」
「そうか。ちょ、ちょっと待って」
極端に口数の少ない真雪の横顔をノクティルカが盗み見る。
それに気付いているか否か、引き出しの中を覗き込む彼は
どことなく頬が紅潮しているように感じた。
それは夕暮れの光の加減か、それとも。
途切れがちの会話。
書類をめくる音が二人の間を通り抜けていく。
「レイヴン。あの」
「あ、あった。じゃあ、これ……」
意を決したように名前を呼んだ声を、書類を差し出した真雪が遮る。
書類と目の前の顔を見比べたノクティルカは口を結ぶと、
手を伸ばして受け取ろうとした。
その時、真雪が弾かれたような反応を見せる。
指の先が触れた感覚。
息を飲む表情を浮かべてノクティルカを見上げた。
咄嗟に手を引っ込めて、慌てた様子で視線をそらす。
動揺しているのか、落ち着きなく瞳が動いていた。
「わ、悪い。ビックリした……」
「いえ、こちらこそ驚かせてすみません」
視界の端に黒い残像が走る。
何事かと窓の方に顔を向けると、それは低空を飛んでいたカラスであったらしい。
オレンジ色の中で黒が浮いて見えた。
ノクティルカは言い淀むように唇を噛んだ後、真雪を見る。
「あの、レイヴン」
「な、何?」
「今日、お時間ありませんか? ちょっとお話したい事があるのですが」
「……あー、今日はちょっと分からないかも。でも」
ぎこちない会話の端々に沈黙が生まれた。
真雪は首を傾げて天井を仰いだ後、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
手がしきりにワイシャツのカフスをいじっていた。
「今日じゃなくて、その後だったら……」
「レイヴン、ちょっといいかな?」
「あ、うん」
後方から投げられた言葉に慌てた様子で振り返る。
ノクティルカと十数メートル先を交互に眺めて、眉を寄せた。
立ち上がると同時に事務椅子から派手な音が聞こえる。
小さく漏れる溜息。
「ごめん、ノクティルカ」
「いえ、いいですよ。話はまた今度」
「近いうち、落ち着いたらメールするわ。俺もお前に話したい事あるし」
気が付くと、それまで強い光を放っていた夕日は翳り始めていた。
東の空は既に夜の色に染まっている。
ビルとビルの隙間に熟れたような原色のオレンジの光が見えた。
窓の向こうに灯が増え始める。
整然と並ぶ事務机にネオンの光が反射しているのが見えた。
「……ごめん、色々と。もうちょっとだけ待ってて」
歩き始めた真雪の背中が止まると、呟くように言う。
その声は小さく、階下の大通りを行き交う人々の靴音や話し声にかき消されそうになる。
声から感情を読み取る事は出来なかった。

 比良坂事務所のある霧島区夜見坂本は、五条駅から徒歩五分ほどの位置にある
小規模な繁華街だ。
風俗店と居酒屋ばかりが立ち並ぶ界隈で此岸の関係者も数多く存在する場所だった。
古ぼけた建物や雑居ビルが多いものの、人通りは多い。
真雪は細い路地を縫うように歩いて繁華街を抜け、線路沿いの道にいた。
今までの眩しいくらいの街の灯や賑やかな音楽とは裏腹に、
この周辺は外灯が等間隔に設置されているだけで薄暗い印象がある。
線路沿いに設けられた、伸び放題になっている雑草と
鬱蒼とした樹木ばかりの公園のせいだろうか。
繁華街とは数十メートルしか離れていないというのに、別世界のようだった。
時刻は十一時過ぎた頃。
帰宅途中の人々なのだろう、駅から伸びるこの道には複数の靴音が聞こえている。
だが話し声はなく、間近を走り抜ける電車の音や遠くから届く音楽だけが
すり抜けていった。
「……花の匂いがする」
真雪が小さく呟くと、暗闇の中で匂いの発生元を探そうとする。
おそらくこの芳香はキンモクセイで、公園に植えられているものらしい。
それまで沈んだ表情を浮かべていた彼の顔に、どこか楽しげな色が宿った。
 ノクティルカに気持ちを明かされた夜以降、
真雪は自分が自分ではないような感覚に戸惑っている。
何かの拍子に考え込んでしまい、どこか上の空だった。
平静を装おうとすればするほど、ノクティルカを意識してしまう。
彼を避けるような真似はしたくないのに無意識のうちにそうしてしまう自分がいた。
どんな言葉をかけていいか分からず、顔を直視する事も気まずさが先行してしまう。
自分の行動がノクティルカとの関係をこじらせている事は承知だったが、
真雪にはどうする事も出来なかった。
何故避けてしまうのか。何故、こんなにも意識してしまうのか。
その原因をどこかで理解しつつも、それを受け入れる事は出来なかった。
「あとでちゃんと謝らなきゃ」
思い耽っていた真雪が髪を書き上げる仕草をしながら独りごちた。
聞こえるのは彼一人分の靴音。
湿気を多く含んだ肌寒い空気に首を縮めながら歩く。
真雪のいる位置は駅まで目と鼻の先であるにもかかわらず、
彼の足は反対方向に向いていた。
この先には線路をまたぐ高架橋がある。
複数路線が乗り入れている五条駅近くであるせいか、その線路の幅は川のようだった。
絶え間なく駅の構内放送が響き、光のラインが断続的に行き来している。
真雪が高架橋の緩やかな坂を登りながら、顔を駅の方角へと向けた。
手には携帯電話。
しきりに液晶を眺めては、溜息をついてスラックスのポケットにしまうという行為を
繰り返す。
何を思うのか、真雪が俯き加減に苦笑を漏らした。
知らないうちに立ち止まっている事に気付いて、右足を踏み出そうとする。
だが、真雪は歩き始めずに固まったように静止していた。
片足を持ち上げた格好で微動だにしない。
顔は俯いたままだったが、視線だけは後方に向けられている。
息を殺し、耳を澄ませた。
聞こえるものは耳元で唸る風、電車が走り抜ける音と、遠くの繁華街の賑わい。
彼の周辺には何もないというのに。
暗闇に紛れそうな黒いスーツ姿の青年は、見えない何かを睨み続けていた。
「……俺に何か用?」
返ってくるのは静寂のみ。
それでも真雪は表情を崩そうとせず、一歩も動こうとしない。
ボタンを留めていないジャケットとネクタイがにわかに強く吹いた風で煽られた。
「それで隠れてるつもりかよ、バレバレだっつーの。コソコソしやがって」
後方十数メートル、高架橋の二股に分かれた地点に人影がある。
闇と同化していて見づらいが、どうやら二人の男らしい。
ニットキャップを被った長身の男と両耳に無数のピアスをつけた男。
どちらも二十代前半から半ばぐらいで、カジュアルな服装をしていた。
見慣れない顔ながら、その雰囲気は此岸の関係者である事は容易に分かる。
ややあって、引きずるような靴音が真雪に近付いてきた。
「さーすが死神さんスね。俺らがいるの、バレバレでした?」
「気配だけで分かっちゃうなんてカッコいー」
笑いながら発せられた言葉に真雪が不快そうに顔を歪める。
目を細めるようにして睨むと、さり気なく目の前の男達の爪先から脳天までを眺めた。
死神という単語を出した所から彼らが此岸の人間である事は間違いないようだ。
真雪は心の中で生じた苛立ちを押し殺しながら彼等を観察する。
此岸の人間ではあるものの、チェイサーではないようだった。
血やイレギュラーの匂いなどは一切しない。
ならば対人間専門、暗殺業を生業とする非合法なチェイサー・マンハントか?
心の中で様々な推測を一つずつ打ち消しながら、正体を探ろうとしていた。
彼らが何者であれ、戦闘は何としてでも避けたい。
場所の問題はもちろん、真雪の武器であるスキル
――いわゆる魔法では手加減が出来そうもないからだ。
「何で死神知ってんの?」
「『こっち側』で死神知らない奴なんていないっしょ。有名人だもんなぁ?」
「その格好、すっげえ目立つし。背中に『俺は此岸の人間です』って
看板つけて歩いてるようなモンじゃん」
薄笑いを浮かべる二人は嘲るような口調をやめようとしなかった。
言葉の端々に浮かぶ笑い声。
だが、その瞳は殺気に似た敵意が見え隠れしている。
真雪は溜息をついた。
「……で。あんた達、誰よ」
「誰でもいいだろ。死神さんには関係ねえよ」
「へえ? 悪いけど、自分の名前も言えねえような奴と話す筋合いなんてねえな。
遊び相手なら他当たれ」
「うっわ、感じ悪! フレンドリーに話してあげてんのに、何その態度」
真雪の両側を男達が固め、立ち去ろうとするのを防いでいるかのような体勢。
強い香水の臭気が鼻をつく。
この場で二人を振り切る事は出来ても、この高架橋を渡りきって逃げる事は
不可能な気がした。
せめて階段近くか、三叉路になっている地点であれば。
赤紫色の瞳が周囲の状況を探る。
「ちょっと聞きたい事があんだよ、死神さん」
肩に手を置くニットキャップの男に真雪が嫌悪のまなざしを向ける。
だが、それは薄笑いになって返ってきた。
「あんた、最近ヒト殺したろ?」
「何言ってんだか分からねえな」
「とぼけんじゃねえよ。なあ、誰に言われた? 依頼主は誰なんだよ」
「人違いじゃねえのか。お前ら、相手間違えてんぞ」
今までの薄笑いが消え、睨み合う静寂が訪れる。
眼下をけたたましい音を立てながら電車が通り抜けていく。
足元に伝わる振動と共に、薄暗い周辺がにわかに明るく照らされた。
「間違ってねえよ。黒いスーツ姿で人殺してるヤツなんて
お前ら死神以外にいねえだろ」
「あのなぁ」
「答えろよ。〇五九か? それとも九堂か? また別の奴等か?」
「聞けよ、くそったれ。だから勘違いしてるって言ってんだろ。
誰と間違えてるかは知らねえけど、死神はお前らが思ってるような
生き物じゃねえんだ」
語調が強くなっていく。
問い質すニットキャップの男の声を怒鳴るように遮ると、真雪は大きく息をついた。
風で流される髪を手で押さえる。
頬に水滴が当たった気がしたのは錯覚だろうか。
「死神はマンハントとは違う。誰かの依頼で人を殺す真似なんかしねえんだよ」
「けど、お前ら以外で人を病気で殺せるヤツなんていねえだろうが!
ヤクじゃねえ、誰かに刺されたわけでもねえ。この状態で考えられる犯人なんて
死神以外いねえだろ!」
「違うって言ってる」
「死神って刺したりしなくても殺せるんだよな?
てめえじゃねえっていうなら、他の死神教えろよ」
夜の闇の中、視界を遮る一本の線。
地面に点々と染みを作っているらしいそれは雨だった。
次第に数を増していき、風のような音を生みながら周囲を濡らしていく。
会話が途切れ、誰ともなしに黙った。
周囲の音楽や駅から届くアナウンスが雨音にかき消される。
線路脇を縁取るように灯る街の光が滲んで見えた。
「……ねえ、テツさぁ」
不意に、それまで黙っていた真雪の脇に立つピアスの男が声を発する。
「めんどくさいから事務所に連れていっちゃおうよ。死神だったら
何か知ってるはずだもん。手嶋さんの前だったら、コイツだって喋るでしょ」
「ああ、そうだな。雨降ってきちまったし、それがちょうどいいか」
「そんなワケで死神さん。俺らと一緒にちょっと来てくれない?
断ったら、このまま線路にアンタ突き落とすけど。どっちがいい?」
平然と放たれる言葉。
ニットキャップの男とピアスの男、二人の視線が真雪に注がれる。
数分前の薄笑いはどこにもなく、目は笑っていなかった。
背中に手が置かれたのが分かる。
真雪は疲れた表情を浮かべて、髪をかき上げた。
手にしたたかに濡れるのが分かる。

 タチの悪い連中に捕まったと真雪は内心ウンザリしていた。
彼等は死神という職業を誤解している上に、自分を敵だと頭ごなしに決めつけている。
気になるのは彼の話の内容だ。
『人を病気で殺せる奴』『最近人を殺したか』とは一体どういう意味なのか。
そして、それに関わる話を最近耳にした気がする。

「……お前らがその気なら、こっちだって手ェ出すぞ。怪我しても知らねえからな」
真雪は溜息混じりに言った。
この状態で逃げようと思うならば多少怪我をさせてしまうのは仕方ないだろう。
二人の男を観察しながら、スラックスに突っ込んだままだった右手を出す。
わずかずつ後退する右足。
高架橋下に落とさないよう、適度なダメージを与えるには
――脳裏で忙しく考えていた。
男達も真雪の行動に異変を感じたのか、身構える。
目配せをし合って、どう動くかを打ち合わせているようにも見えた。
雨足が強くなる中、一触即発の空気が漂う。
睨み合う時間が続いていた。
だが。

「レイヴン」
後方から飛んできた声が均衡を破る。
「『それ』はお前が手を出すほどの相手じゃない」
不機嫌そうな声が溜息をついた。
真雪は思わず眉を寄せて怪訝そうな表情を浮かべる。
薄暗い一帯、遠く離れた外灯が歩いてくる男を照らした。
水音を纏わりつかせながら近付く靴音。
真雪が振り返った先にいたのは黒い傘を差した黒いスーツ姿の男だった。
ストレートの銀髪に眼鏡越しの赤い瞳。
露骨に不機嫌そうな表情を浮かべ、男達を見定めると小さく舌打ちする。
「……ノク、ティルカ?」
「傘、持ってろ」
「え? あ、ああ」
乱暴な動作で押し付けられた傘を、唖然とした表情のまま真雪は
ノクティルカから受け取った。
鋭い目つきも話し方も普段からは想像がつかず、別人のようだ。
暗闇の中でくわえた煙草の灯が蛍のように浮かび上がって見えた。
「俺のパートナーに何か用か?」
ノクティルカがネクタイの結び目に手をかけ、
真雪から後ずさるようにして離れた男達を見据える。
「何だお前? 邪魔すんじゃねえよ」
「それはこっちの台詞だ。今、俺は機嫌が悪い。癇に障るような事を言ったら殺すぞ」
「あぁ!? ふざけんな、てめえに用はねえ!」
ニットキャップの男とノクティルカの間は数メートル。
人がすり違えるほどの幅で、逃げ場のない一本道の高架橋の上だった。
怒声とは裏腹に男達はわずかずつ後退し、間合いを広げようとする。
「なるほど、どこにでもいる犬畜生か。吠えるだけで何が出来る訳でなく、
たむろする事しか能がない」
「どうしても痛い目見たいみてえだな、てめえ。俺達を誰だと思ってるんだよ」
「知らないから聞いてるんだ、阿呆。
……レイヴン、コイツらはお前のお友達ではないんだな?」
溜息混じりの声には呆れが滲んでいた。
ポケットに手を突っ込んだままで、靴底が苛立ったリズムを打つ。
名を呼ぶと同時にノクティルカは睨んだままの視線を傍らに向けた。
雨の中でタバコから伸びた紫煙が漂う。
「こんな品のない友達はいねえよ。俺が人殺してるって勘違いしてて絡まれてただけだ。なんか、人を病気で殺せるのは死神ぐらいだっつってさ」
「ほう、それは興味深い。是非お話を伺いたいものだ」
傘を差したまま、面倒臭そうに言う真雪の言葉にノクティルカが口を大きく歪めた。
瞳に微量の殺気を宿し、不敵な笑みを浮かべる。
雨を含んで額に貼り付く前髪も気にせず、眼鏡を中指で押し上げた。
顔が男に向けられる。
視線が合った瞬間、男達に緊張が走った。
ノクティルカが薄笑いを浮かべたままでゆっくりと歩き出す。
鼓動のように周囲に響く靴音。
男達との間合いが徐々に狭まっていく。
「ぶっ殺すぞ、てめ……!」
「テツ!」
歯軋りの隙間から言葉を発し、今にもノクティルカに掴みかかりそうになった
ニットキャップの男を止めたのは、彼の隣に立ってたピアスの男だった。
怒鳴り声にも似た声量で乱暴に肩を掴む。
引き戻される形になったニットキャップの男は怪訝そうに隣を見た。
「テツ、マズイよ。そいつは相手にしないほうがいいって!」
「何でだよ」
「だって、ノクティルカって……!」
ピアスの男が小声で何事かを言い、目配せをする。
ノクティルカに注がれる二つの視線。
降りしきる雨の中で対峙する人影は、睨み合ったまま動かなかった。
手すりから滴り落ちる水音が間近で聞こえる。
「コイツがやったって決まったわけじゃねえし、
わざわざリスク犯す必要なんてねえか」
舌打ちと共に聞こえた独白。
二人の男達はノクティルカを睨みつけると、唾を吐く。
「この場はアンタに免じて退いてやるよ、ノクティルカ」
「それはありがたい。バカの世話にせずに済んで助かる」
「次会ったら容赦しねえからな! 覚えてろ!」
吐き捨てるように言うと二人の男が水溜りを踏みながら前方へ駆けて行った。
派手な靴音と入れ替わるように、真下で電車が走る抜ける轟音が響き渡る。
水が光を反射し、周囲が明るくなった。
「去り際に『覚えてろ』とは……ずいぶん古風だな」
十秒ほどの沈黙の後、火が消えた煙草をくわえたままでノクティルカが呟く。
溜息混じりに肌に張り付く髪をかき上げると、
注がれている視線に気付いて顔を向けた。
驚きの表情を浮かべたままの真雪を不思議そうに見る。
「どうかしたか?」
「え? い、いや別に。その、ありがと」
真雪は我に返ったような反応を見せた後、慌てた様子で言った。
「……ノクティルカ、だよな?」
「当然だろう。他の誰に見えるんだ」
「いや、喋り方とか雰囲気とか全然違うから」
困惑した様子でどこか不機嫌そうなノクティルカを観察する。
両側のネオンで彩られた景色が煙って見えていた。
雨が人を隠したのだろうか。
高架橋を渡る人影は皆無と言っていいほどで、遠くに見える道も
人通りが少なく思える。
 真雪は、今まで見たことのないノクティルカの様子に戸惑っていた。
話し方から目付きが全く違い、別人だと言われれば信じてしまいそうになる。
そして気になるのは、先ほどの男達の反応だった。
彼等はノクティルカの名前を知っている上に恐れているようだったが。
きっと尋ねても彼は教えてくれないだろう。
真雪は驚きと困惑で、それまで避けていた事や気まずさなど忘れていた。
「ああ、酒が入っているんだ。さっきまで馬鹿野郎と飲んでいて、散々笑われた。
お陰で今、すこぶる機嫌が悪い」
「馬鹿野郎って誰だよ」
「お前も知ってる奴だよ。今は仕事をしている訳ではないから
別にこんな喋り方でも問題ないだろう。もともと仕事の時にあんな話し方をするのは、
自分の感情を殺す為と冷静でいる為だしな」
「……だからってここまで人が変わるか、普通。別にいいけどさ」
溜息混じりに呟いた真雪が苦笑を浮かべる。
それを見ていたノクティルカがどこか安堵した表情で口の端を緩めた。
傘の先から絶え間なく滴る雫が二人を遮る。
「ところでレイヴン、ちょっと……」
表情を引き締めて言いかけた言葉を飲み込んで空を仰ぐ。
空から降り注ぐ雨粒に顔をしかめた。
数分前よりも雨足が強くなっており、傘に当たる音で声が聞き取りづらい。
「いや、ここで話すのは無理か。なあ、お前さえ良ければこの後俺の家に来ないか? 事務所にまた戻るのも癪だろう」
「ノクティルカの部屋?」
「嫌なら日を改めるが。無理強いはしない」
尋ね返す顔に何らかの感情を見たのか、ノクティルカが言葉を付け加えた。
真雪は動きを止めて思案しているようだったが、ややあって頷く。
雨音が会話を度々かき消そうとしていた。
「いや、別にいいけど」
「けど?」
「また部屋が汚くなってそうだなって。掃除してねえだろ?」
「お前が定期的にしてくれているから必要ないだろう。大丈夫だ、足の踏み場はある」
肩をすくめて発した言葉に真雪が吹き出した後、笑いながら首を横に振ってみせる。
そして、どちらからともなく歩き始めた。
薄暗い外灯が水で滲んだ二つの影を作る。
「ところで」
「ん?」
「レイヴン、先ほどから俺がずぶ濡れなのは知っているか?」
「え? あー、ごめん! 傘返す!」
大声と笑い声が重なって響いた。
闇に同化してしまいそうな風景の中で、
黒いスーツ姿の青年の指す傘にもう一つのシルエットが入るのが見える。
電車が眼下を轟音を響かせながら通り抜けて行った頃には、
二人の姿は既に夜と同化していた。
 
 ノクティルカは湯気を吐き出すヤカンを手にしたまま、
部屋の中を動き回る真雪を目で追っていた。
唖然とした表情を浮かべ、何か言いたげにしている。
聞こえるのは遠くで洗濯機が動く音と、歩く気配に付き纏うビニールの乾いた音。
そして、絶えず口の中で文句を言っているらしい真雪の独白だった。
「片付けてくれるのは有り難いが、後でもいいんじゃないか」
「良くねえよ」
「俺は、お前に掃除を頼みたくて部屋に呼んだ訳ではないんだが」
「ざっと掃除するだけだよ。こんな状態じゃ落ち着いて話も出来ねえっつーの」
白い部屋に木目調の家具が並ぶリビング。
ソファには毛布が無造作に放り出され、床には本や書類で出来た塔が
いくつも出来ている。
テーブルの上には空のペットボトルが一列に並んでいた。
雑然とした印象のリビングとは裏腹に台所は新品同様に綺麗だ。
「相変わらず几帳面にきたねえな、お前の部屋」
「それは褒めてるのか、貶してるのか」
「貶してんだよ。ペットボトルを並べるくらいなら、ちゃんと捨てろよ! 本を分類して床に積むなら本棚にしまえ! ホコリもまとめないで床拭けばいいだろ!」
怒気混じりの声がゴミ袋を引きずりながら通り過ぎていく。
ノクティルカはティーポットに湯を注ぎながら、苦笑混じりにその姿を一瞥した。
カーテンの隙間から覗くのは一面に広がる光の海。
車のテールランプが血管のように四方八方へと伸びている。
ここは五条駅近くの高層マンションの一室である、ノクティルカの部屋だった。
「しっかし、仕事じゃ病的に神経質なクセに
何でプライベートになるとこんなに無頓着なんだろう」
「家事が苦手な上に大嫌いなんだよ。出来る事なら一生ホテルで暮らしたい」
「ああ、なんか分かる気がするわ。お前、まともに出来る家事って
お茶淹れるくらいだろ?」
「充分じゃないか」
呆れた調子の言葉に笑い含みの声が答える。
室内にはフレーバーティーの芳香が広がっていた。
ノクティルカは壁にかかった時計に視線を向けると、食器棚に向かう。
不意に何かを思い出したように顔から笑みが消えた。
何事かを考えているらしい横顔、二つのマグカップを手にしたものの動きが鈍くなる。
ややあって振り返ると、離れた位置でしゃがみ込んで本をめくっている真雪を眺めた。
「なあ」
「んー?」
「この間の事なんだが……」
「お、千円札みっけ。なあ、本の間に金挟むのやめろよ。
そのうち忘れて処分しちまうぞ」
意を決したように切り出すが、真雪からは聞いているのか分からない調子の返事が返ってくる。
意識は目の前の本に向けられているようで、呆れた声で愚痴をこぼしていた。
「レイヴン、聞いてるか」
「ああ、ごめん。何?」
「だから、この間の事を謝りたいと思っていたんだ。お茶も入ったし、ちょっと手を」
「うわ、今度は五千円札だし! 貯金箱かよ、この本は」
それまでマグカップに紅茶を注いでいたノクティルカが大袈裟に溜息をつく。
カウンターの上にティーポットを置くと大股で部屋を横切った。
表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。
真雪の横に立つと、乱暴に肩を掴んで自分の方に身体を向かせた。
「いい加減に話を聞け。それは後でもいい」
微量の怒気が混じる言葉と向けられた強い視線に真雪が驚いた表情を浮かべて固まる。
この部屋にある時間は止まっていた。
無音の中で、壁にかかった時計の針の音だけが音を刻む。
見つめ合う数秒は長く、呼吸をするのも躊躇った。
「……悪い」
「いや、俺の方こそごめん」
「こんな事をしたらまた嫌われてしまうな」
自嘲気味に笑うと視線をそらし、真雪の肩から手を離す。
押し殺した溜息がきこえた。
ややあってカウンターの方へと戻ったノクティルカは
両手にマグカップを持って戻ってくる。
一方を真雪に手渡すとソファに座った。
その音が妙に大きく室内に響き、どちらからともなく黙り込む。
「別にお前の事を嫌ってるワケでもねえし、この位で嫌うほど小さくもねえよ」
数秒間の沈黙の後、真雪が心なしか怒ったような口調で呟く。
床に敷かれたラグに座り、マグカップの中に満たされた紅茶を見つめていた。
「それ以前に、そんな風に思ってたら部屋になんか来ねえだろ」
「でも避けてたじゃないか」
「あれは……あれは、違う」
言いかけて言葉を飲み込み、口ごもる。
まっすぐ見つめるノクティルカとは反対に、
真雪は俯いたままで顔を上げようとしなかった。
所在なげに毛足の長いラグを指で弄ぶ。
「あれは別に嫌いで避けてたんじゃねえ。自分でもどうしていいか
分からなかったんだ。なんて言えばいいんだろうとか、
いろいろ考えてるうちにそうなっちまってたってだけで」
まだ雨は降り続いているらしく、風に似た音が外から漏れ聞こえていた。
手すりに落ちる雫が等間隔のリズムを響かせている。
会話が途切れた拍子に聞こえる雨音で、更に静寂が濃くなっていく気がした。
「俺がそういう態度取ると、お前を傷つけるって分かってたんだけど。
結局、俺は自分の事ばっか考えてた気がする。気まずいとか、そればっかりで」
「もともと俺の発言でお前を困らせたんだ。そんな事は気にしなくてもいい」
「でも、辛かったのはお前だって一緒だろ」
唇を尖らせて抗議する様子に、ノクティルカは紅茶を飲みながら口元を緩ませる。
生乾きの髪をかき上げたままで伏し目がちに笑った。
「謝らなきゃって思ってたんだ。だから、ごめん」
「お前は悪くないよ。謝らなきゃいけないのは俺の方じゃないか。
不用意な事を言って、お前を混乱させた。こんな感情を向けられても困るよな」
「いや、俺は」
「悪かった、レイヴン。余計な事で悩ませる事になってしまった」
まっすぐに見つめ合う視線を最初にそらしたのは真雪だった。
あぐらをかいた姿勢で足を持つと身体を上下に揺らし、何か思案しているようだった。
顔に浮かぶのはどこか不貞腐れた表情。
唇を噛んでラグの一点を見つめる。
「……ホントだよ。こんなに悩んだの、久し振りだわ」
独りごちると、ノクティルカを軽く睨んだ。
「仕事ならどうにかなるけど、こういう事は悩むと厄介なんだよ。
だから嫌なんだ、コレ絡みの事って」
「コレ絡み?」
「お前、トボけてない?」
「分からないから聞いてるんだ。人間関係の事か?」
怪訝そうに首を傾げる顔に溜息をつく。
真雪は床に置いたマグカップを手に取って立ち上がると、窓際へと歩いた。
空気が動くのが分かる。
小さく息をつく気配を感じた。
「近いけど、ちょっと違う」
ノクティルカは真雪の背中を見つめる。
彼の位置からでは顔は見えず、感情を読む事は出来なかった。
「考えれば考えるほど分からなくてさ。考えるのよそうって思ってても、
気が付くと考えてるんだわ。今どうしてるのかな、ちゃんとメシ食ってるかな。
どんな風に考えてるんだろう、今何を思ってるんだろうって」
カーテンを開ける音が聞こえ、窓に漆黒が広がる。
どうやら外は冷え込んできたらしく窓ガラスの一部が曇り始めていた。
「何言ってんだって笑い飛ばせたら、冗談って事にしちゃえば
俺もお前も楽だったんだと思う。気持ち的には多少気まずくても
普段どおりに顔合わせて、仕事も出来ただろうし。でも、そんな事出来なかった」
「どうして?」
「さあ、どうしてだろ。よく分からねえけど」
真雪の指が窓ガラスに伸び、窓に浮かんだ水滴に恐々と触れようとする。
顔だけで振り返って、後方でソファに座るノクティルカを見つめた。
この沈黙は言葉を選んでいるのか。
「俺も、お前と同じ気持ちが自分の中にあったのかもしれない。
だから、そうやって冗談で片付けられなかったんじゃないかって。
嫌われたくないとか、お前の事ばっか考えちまうっていうのは、
そういう事だと思うんだ」
手にしたマグカップから立ち上っていたはずの湯気は既に消えていた。
真雪はぎこちなく視線をそらすと、気まずそうな表情を浮かべる。
ノクティルカはやや呆然とした面持ちで聞いていたが、急に笑みを漏らした。
「そういう事、とは?」
「お前、性格ワリィぞ。分かってて聞いてるだろ」
「ちゃんと言ってくれ。どういう意味か分からない」
「ニヤニヤすんのやめろ、確信犯! ほんっと性格悪いな、お前」
怒気混じりに息をつくと同時に真雪の後方で立ち上がる気配がある。
近付く足音。
真雪は乱暴に頭を掻き、苛立ちと羞恥の混じった視線で
自分の後ろに立つノクティルカを睨んだ。
ややあって、鼻を鳴らして顔をそむける。
「……好きで悪いか」
「いや?」
「だって仕方ねえだろ!? 自分の気持ちを客観的に考えたら、
お前を好きだって事になっちまったんだから!
お前が女だったら普通なんだよ、この感情は! でもお前、男だし!
男が男を好きになるのは変だって思……」
「何も言ってないだろう、別に。何をムキになってるんだ」
ノクティルカが笑いを含んだ声で言った。
笑いを堪えきれないらしく口元が不自然に歪み、肩が震えている。
その様子を見て真雪は不貞腐れた表情を浮かべて口をへの字に曲げた。
「笑うんじゃねえ!」
「いや、悪い。その、つい可愛いと思ってしまった」
「可愛いって言うな!」
怒鳴りながら後ろに立つ死神に向き直り、腹を軽く殴る。
一方でノクティルカは自分を殴る真雪の手を強引に引くとそのまま抱きしめた。
一瞬硬直する真雪の後頭部を軽く叩くように撫でる。
「おま……っ! じゃれるな、馬鹿!」
「こうするには許可が必要か?」
「事前に聞かれても断る! ていうかお茶がこぼれるから!」
「その割には逃げようとしないな。お前の力なら、俺から逃げられるだろう?」
真雪は密着する身体を剥がそうと押し返すものの、力は入れていないようだった。
瞳を動かして、間近で笑う顔を睨む。
不意に、ノクティルカの腕に力が入った。
喉を鳴らすような笑いは溜息に変わる。
室内は静まり返り、窓越しに車が水を踏みながら通り過ぎる音が聞こえた。
曇ったガラスに一つになったシルエットが写る。
この部屋に動くものはなく、周囲が聞き耳を立てているように静かだった。
「……よかった、嫌われてなくて」
声が微笑みながら呟く。
その様子に真雪は顔をノクティルカの方に向けるものの、
彼の表情を確認する事は出来なかった。
頬に彼の髪が触れる。
「嫌われるのは慣れているし、感情なんて邪魔なだけだと思っていたのにな。
人から嫌われる事が怖いと感じたのは初めてだ」
「そうなの?」
「ああ。昨日までは言った事を死ぬほど後悔していたが、
今は言ってよかったと思っているんだから不思議だよ。
もしかして夢なんじゃないかと疑っていたりもするが」
「じゃあ、夢なのかもな。俺もお前も、誰かが見てる夢の中にいるのかもしれない」
ノクティルカが身体を起こして真雪の顔を眺める。
どちらからともなく吹き出すように笑った。
見つめ合う、数秒。
ノクティルカの手のひらが真雪の後頭部に触れると、そのまま胸へと押し付ける。
二人ともワイシャツ姿であるせいか、布越しに互いの体温が伝わっていた。
何か言いたげな表情を浮かべていた真雪が、
頭を預ける形でノクティルカにもたれかかる。
表情は読み取れなかったが、口元は笑っていた。
そして、真雪が躊躇いながらノクティルカの胴へ腕を回す。
その感触にノクティルカが微笑むと、彼の髪に数秒唇を当てた。
「……なあ。今、頭にチューしなかった?」
「何を言ってるんだ。そんな事をする訳がないだろう」
「いや、した。絶対してた」
「何を根拠にそんな事を言ってるんだ、お前は」
顔を持ち上げて間近の顔を睨む真雪と、溜息混じりで顔をそむけるノクティルカ。
外は依然として雨が降っている。
風向きが変わったのか、ガラスに雨粒が当たる音が聞こえた。
「レイヴン、ちょっと風呂入って来たらどうだ」
「へ?」
「お前、雨に降られただろう。髪に雨の匂いが染み付いている」
「ああ、そういえば少し雨に降られ……って、やっぱりしたんじゃねえか!」
真雪がノクティルカに抱きついたままの姿勢で背中を殴る。
静かな室内に怒鳴り声と笑い声が重なって聞こえていた。
午0時23分。
夜はこれから更け、そして雨はまだ止みそうにない。

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