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02: why?

「ただいまー」
真雪が比良坂事務所に戻ってきたのは、あと数分で日付が変わる時刻だった。
ドアが開く音と共に聞こえた溜息混じりの声にノクティルカが書類から顔を上げる。
「おかえりなさい。ずいぶん時間がかかりましたね、いかがでしたか?」
「ちゃんと犬っころ助けてきたよ。認定取り消しはあっさり出来たんだけど、
ワーズワースに捕まってさ。一時間以上愚痴を聞く羽目になった」
「お疲れ様です」
「もともとあの案件、イレギュラー認定するかどうかで結構もめてたんだと。
実害ねえのにイレギュラーにしちまっていいのかってさ。
でも、イレギュラー認定しねえとチェイサーを動かせないからって事に
なったらしいけど」
ドアが開いた時に入り込んだ風が室内に踊りこみ、
空調で暖められた空気をかき混ぜた。
無機質なオフィス家具が並ぶ事務所は閑散としている。
銀髪のスーツ姿の青年――ノクティルカ以外の人影はなく、うら寂しい雰囲気だった。
蛍光灯の真っ白な光が殺風景な景色を際立たせているように感じる。
「あれ? 他の奴等は?」
「死亡宣告に行っていたり、休みだったり、油を売っていたりして誰もいないんです。おかげで、ずっと留守番をする羽目になっています」
「この事務所に人がいねえのは毎度の事じゃん。
気にしないでメシ食いに行っちゃえばよかったのに」
「わざわざ戸締りをして出掛けるのも面倒で、食事をする気が
失せてしまったというか。少し待てば貴方が帰ってくるでしょうし」
応接セットに座ったノクティルカが書類を手にしたまま苦笑した。
どこか上の空の口調なのは、紙面に目を走らせているからであるらしい。
眼鏡の奥の赤い瞳が忙しく動いている。
「それは何? 遠回しにメシ作れって言ってる?」
「いえ、どうせなら一緒に食べたいと思ってたんです。
レイヴンが自分の分を用意するついでに私の分もお願いしたいという
下心も多少ありますが」
「俺はお前の奥さんじゃねえっつーの。
いいけどさ、一人分も二人分も手間は一緒だし」
「ありがとうございます」
溜息と共に吐き出された言葉に笑いが混じる。
真雪は脱いだジャケットをソファの背もたれに放り投げると、給湯室に向かう。
付けっ放しのテレビから垂れ流されているニュースの音声に靴音が重なった。
「もう時間も遅いし、軽めでいいよな。ノクティルカ、何か食いたいものある?」
「あ、魚がいいです」
「聞いた俺がバカだった。お前には魚以外の選択肢はないのか。
毎回、魚魚言いやがって」
給湯室の奥に消えた真雪と、ソファに座って書類を読むノクティルカが
張り上げ気味の声で会話を交わす。
窓には風俗街のネオンが写り、鮮やかな光が広がっていた。
窓際に置かれた観葉植物の葉に点滅する灯りが反射する。
聞こえるのは無数の靴音と喧騒。
周囲の賑やかさが、室内の静けさを色濃くしていた。
「あるのは鮭と干物か。ああ、タラコも残ってるんだっけ」
給湯室では冷蔵庫を開ける音と共に、真雪の独り言が聞こえる。
後頭部を撫でながら冷蔵庫の中を覗きこんだ。
リズムを刻むようにつま先が床を打つ。
「ノクティルカぁ。干物の焼いたのと、鮭のホイル焼き、
タラコのスパゲティだったらどれがいい?」
『次のニュースです。昨日、東京都霧島区五条の路上で男性が死んでいるのを
近所の飲食店の店員が発見し――』
「なあってば。聞いてる?」
一向に反応が返ってこない事に痺れを切らしたのか、
真雪が給湯室から身を乗り出して応接セットに顔を向けた。
微量の苛立ちの表情を浮かべて何事かを言いかける。
だが、それは言葉にならずに口を結んだ。そこにあったのは。
『被害者は住所不定・無職の里中 圭吾さん、25歳。
目立った外傷はなく、警視庁は事件と事故の両面で捜査しています』
画面を睨むように凝視して微動だにしないノクティルカ。
書類を持つ手に力がこもり、握り潰しそうな勢いだった。
「ノクティルカ?」
表情を滅多に崩さず、いつも冷静な彼のこんな様子を見るのは初めてだ。
真雪はノクティルカを観察しながら思う。
目付きも、身に纏う空気もまるで別人のようだった。
被害者が知り合いなのか、またはこの一件に関係しているのか?
この重い空気は、とても聞ける雰囲気ではない。
「……此岸よりも先に情報が流れている」
聞こえた呟きは緊迫感と苛立ちを含んだ声。
ノクティルカは眉を寄せてテレビを見据える。
不機嫌そうに口を曲げると鼻で息を吐いた。
「此岸より先に?」
「ええ。此岸関連の事件でしたら巷より先に此岸で噂になるのが普通でしょう。
いえ、それ以前に大抵の此岸で起こった事件はニュースになる前に
揉み消されてしまう事がほとんどなのに」
「まあ、そうね。よっぽどデカい事件じゃねえとニュースにならねえわな」
「ですよね。それが今回、此岸で広まる前にこうしてニュースになってしまっている」
真雪はノクティルカの座っているソファの背後に立つと、
背もたれを抱える格好で前屈みになる。
そして、隣で険しい表情を浮かべるノクティルカとテレビを交互に見比べた。
ややあって、首を傾げる。
「何らかの意図があるのか、それとも隠しきれない何かがあるのか。
どちらなんでしょう」
「いや、ノクティルカさ」
「はい?」
「なんでコレが此岸絡みだって分かるんだよ。
殺人とか傷害事件とかならまだしも、単に死体が見つかったって話だろ?」
頭上で空調が乾いた風を吐き出し、周囲の空気をかき回していた。
テレビからの音声の奥で時計が等間隔に音を刻んでいるのが聞こえる。
がらんとした室内にそれらが響き、寂しさを際立たせている気がした。
階下から酔っているらしい話し声が届く。
「はい。レイヴン、先ほどのニュースの映像を見ましたか?
現場はおそらく五条駅北口付近――出入りする人間のほとんどが
此岸の関係者という地域です。そして、先ほど流れた被害者の顔写真は
見覚えがあります」
「知り合いなのかよ?」
「いえ、顔見知りという訳では。先月、ある事件絡みで
ギルドの名簿を閲覧した際に彼の写真を見た記憶があります。
チェイサーではないようですが、此岸の人間である事は間違いないかと」
「ふうん。じゃあ、結局殺しとかだったのかね。
縄張り争いとか金絡みのトラブルとか、そういう類の話でさ」
背もたれに抱きつく形でもたれかかる真雪が鼻にかかる声を上げた。
考えを巡らせているらしく、視線を宙に漂わせて唇を尖らせる。
「その可能性もありますし、または……」
「ん?」
「今、此岸を騒がせている事件という線も考えられます」
同時に動きが止まった。
疑問の視線を向ける真雪と、思案している面持ちのノクティルカが見つめ合う。
二人の間をテレビからの流れる場違いな笑い声がすり抜けていった。
景色が止まる。
「事件?」
「はい、ご存知ありませんか? ここ二ヶ月の間に、此岸の人間が
連続して亡くなっているんです。それも五条連合に関わる人間ばかりが5人ほど」
「五条連合? あのチンピラっつーか、トラブルばっか起こしてるアイツら?」
「ええ」
ノクティルカは軽く頷くと眼鏡のブリッジを指の腹で押し上げた。
窓の外を一瞥した後、軽く息をつく。
「それは抗争か何かだろ。連合がどっかの奴等といがみ合ってて、
ドンパチやってるだけじゃねえの? だとしたら、二ヶ月で五人死んでるってのも
不自然じゃねえと思うけどな。まあ、多少派手にやりすぎてる気はするけど」
「ええ。外傷があれば、そう思うのが普通かもしれません」
「え?」
「亡くなった五人は殺された訳ではなくて、病死なんだそうですよ。
死因は決まって心不全、薬物の反応は出ていないらしいです」
室内に漂う空気が重くなっていく。
顔を見合わせ、どちらからともなく押し黙った。
「何だ、それ。病死なのかよ」
「はい、気味が悪いですよね。狙っている人間も分からない上に、
防ぎようがありませんし」
「まったくだ。普通の抗争だったら敵対してるヤツの目星がつけば
どうにかなるんだろうけど……連続で病死じゃなぁ。
病気をばら撒けるヤツでもいるのかね?」
「先ほどニュースで流れた方が連合の関係者だとしたら、六人目の被害者という事に
なりますね。単なる流行り病や偶然という訳ではない気がします」
独白に近い口調で漏らす。
静かな室内に書類をめくる音がせわしなく響いた。
 此岸での殺人事件というのは、正直珍しいものではない。
真雪は政局の混乱を伝えるニュースを眺めながら脳裏で考えを巡らせていた。
ニュースで報じられるのはごく一部で、大部分は警察やメディアによって
暗黙の了解として抹殺されている。
被害者がノクティルカの言う通り此岸の人間なのだとしたら、何故明るみに出たのか?
そして、連合の関係者ばかりが死亡している事件は本当なのか?
仮定や人づてに聞いた話ばかりで、何一つ分からないながら考えてしまっていた。
そして、心の中には漠然と嫌な予感がある。

不意に。
応接セットの間にあるテーブルを睨むようにしながら考え込んでいた真雪は、
ノクティルカが自分を見つめている事に気付いた。
どこか思い詰めた風の視線を怪訝に思う。
「何よ、人の顔じーっと見て」
戸惑いの表情に笑みを浮かべて隣に座るスーツ姿の青年を見るが、
彼は口の端すら上げようとしなかった。
押し黙ったまま、赤い瞳にはどこか不機嫌な色が見え隠れする。
「急に黙ってどうしたんだよ? 言いたい事あるなら……」
「匂い」
「え?」
言いかけた言葉は溜息混じりの呟きに飲み込まれた。
ノクティルカの長い指が真雪の顎に触れると、やや強引に自分の方へと向かせる。
わずかに驚いた様子で真雪が静止した。
軽く目を見開き、ややあって数度大きく目を瞬かせる。
時計の針の音が妙に大きく室内に響いていた。
「レイヴン、電話をする前までカルラの所にいたんでしたね」
「え? まあ、そうだけど」
困惑した様子で曖昧に頷く顔に、ノクティルカが身体をひねるようにして顔を寄せた。
まるで耳打ちする格好。
真雪の耳元に唇を近づける。
「香水の匂いがしますね。彼の匂いが移るような事をしてきたんですか?」
耳打ちされ、固まる。
硬直した体の中で瞳だけがせわしなく動いていた。
間近でまっすぐ見つめるノクティルカとは裏腹に、真雪は彼を見ようとしない。
視線が合っても、すぐに逸らした。
「えー、と。違うんだ」
「違うと申しますと?」
「その……ノクティルカ、顔が近い……」
手から逃れようとソファの背もたれから身体を離しながら言いずらそうに小さく呟く。
それと同時に顎を押さえていた指と顔が離れた。
わざとらしい咳払いと、目を合わせたがらない無言の時間が続く。
ノクティルカは真雪に身体を向けたまま、何度も言い淀む彼を観察していた。
「あ、んーと。別に先生と俺は出来てるとか、そんなんじゃなくてさ。
ほら、あの人って夢魔だから人の精気吸わないと生きていけないじゃん?
だから、メシ食ってなくて動けないって言われると放っておけなくて」
真雪は慌てた口調でまくし立てるように言葉を並べる。
何度も髪をかきあげながら、落ち着かない様子であちらこちらに顔を向けていた。
ノクティルカに背を向け、ソファの背面にもたれかかる。
「人助けっていうか、あの人に借りを返してるだけっていうか。
あ、言っておくけど俺、そっちの趣味はねえからな! 
きょ、今日だって別にそういう事を最後までしてたワケじゃねえし」
窓の外のネオンが呼吸をするように点滅している。
締め切りの窓から忍び込む、けたたましい音楽と笑い声の混ざる喧騒。
周囲の賑やかさを耳にする度に、この部屋が孤立しているように思えた。
「だから」
そう言うと同時に息をつく気配がある。
怪訝に思って振り返った先には、声を出さずにおかしそうに笑う
ノクティルカの顔があった。
気まずさが漂う室内の空気が変わっていく。
「……ここは笑うところじゃねえだろ」
「すいません。笑うつもりはなかったのですが」
「笑ってるじゃん。つーか、笑うんじゃねえよ!」
「墓穴を掘っているなと思いまして。適当に言葉を濁せば誤魔化せそうなものなのに。相変わらず貴方は嘘がヘタですね」
「う、うるせえ!」
バツが悪そうな表情を浮かべた真雪が噛み付く勢いで言葉を吐いた。
それでもノクティルカは肩を震わせて笑いを押し殺そうとしている。
睨む顔に手のひらをむけて、なだめようとしていた。
しばらくしてから溜息と共に笑い声が止む。
真雪は不貞腐れた様子で顔を窓の方へと向けると、口の中で何事かを漏らしていた。
「何で言わなくてもいい事まで言ってんだろ。バカか俺は。
カルラはともかく、俺までヘンタイ扱いされるじゃねえか」
「大丈夫ですよ。私はそれしきの事で態度を変えるような人間ではありませんから」
「そうかもしれねえけど、そういう問題じゃねえんだよ」
「なるほど。妬いて損しました」
気まずそうに呻く真雪の様子を眺めていたノクティルカが独り言を残して立ち上がる。
取り残されたように存在する事務机の群れの方へと歩いていった。
静かな室内に靴音だけが聞こえる。
真雪は言葉の意味を捉え損ね、呆けた顔でノクティルカを目で追った。
「え?」
眉間に皺を寄せ、わずかに首を傾げる。
虚空に視線を彷徨わせて発言の意味を考えてみるものの、
納得する答えには行き着かなかった。
口元に手を当てたまま固まる。
「なあ。今、何て言ったの?」
「さあ? 何か言いましたっけ、私」
「誤魔化すなよ。さっき言ってたじゃん、損したとかどーとか」
「言ってませんよ。聞き間違いじゃないですか?」
離れた位置で言葉を交わしているせいで、心なしか声が大きくなる。
机の前に立って書類を読むノクティルカの口調は上の空だった。
紙面に忙しく目を走らせている彼は真雪を見ようとしない。
「嘘だ。『妬いて損した』とか言ってただろ、さっき」
「……聞こえてるじゃないですか」
「聞き間違いだと思ったから、なんて言ったか聞き返したんだよ」
「単なる独り言です。気にしないで下さい」
真雪は後頭部を乱暴に掻くと、大きく息をついた。
微量の苛立ちを滲ませた靴音が部屋を歩き回る。
殺風景な無彩色の風景の中で漆黒が横切っていく。
事務椅子に何かが落ちる気配。
それはノクティルカの隣の席の事務椅子に真雪が腰をかけた音だった。
「やたら食いついてきますね、レイヴン。そんなに気になりますか?」
「当たり前だろ」
「世の中には分からない方が幸せな事もあるんですよ」
「どういう意味だ、そりゃ。更に意味が分からねえんだけど」
椅子に逆向きに座り、背もたれを抱きしめる格好で隣に立つ黒いスーツを見上げる。
返ってきたのは、呆れと困り果てた色の混ざる視線だった。
にわかに強い吹いた風が窓ガラスを叩く。
閉められた窓の隙間から冷気が入り込み、部屋を駆けていった。
「……今、私は不用意に発言した事を強く後悔しています」
「だろうなぁ。俺はしつこいよ? 教えてくれるまで聞くからな」
「意地悪な顔になってますよ、レイヴン。そうやって人を苛めるのはやめて下さい」
「いや、あんたが失敗する事なんてレアだからねぇ。
せっかくだし、からかっておこうかと」
薄笑いを浮かべる顔にたしなめる視線を向け、窓辺に歩み寄る。
眼鏡を押し上げると、隠すように小さく息をついた。
顔だけで振り返って、後方で椅子に座っている真雪を一瞥する。
「そんな風に言ってますけど、これはレイヴンの為でもあるんですよ。
きっと聞いたら後悔します」
「何それ? そんなの聞かなきゃ分からねえじゃん」
「ですから、聞いて後悔してからじゃ遅いんですって」
「そんな事言われたら余計気になるだろうが。大丈夫だから言えよ」
やり取りの後に不意に訪れた静寂。
ノクティルカはスラックスのポケットに手を突っ込んだままで黙考していた。
ガラス越しに伝わる街の賑わいが他人事に感じ、
部屋ごと置き去りにされた気分になる。
視界に広がる毒々しい色合いのネオンが点滅を繰り返していた。
「その前にしていた話の内容を思い出してみて下さい」
数秒の間を置いて、溜息混じりに吐き出された言葉。
真雪の位置からではノクティルカの表情は見えず、声から感情を読む事も出来ない。
「そして普段の私の行動を思い出してみれば、先ほどの言葉の意味を知る事など
容易いでしょう」
「普段の行動?」
「貴方と二人で事務所待機をする時に限って残業をする事が多かったり、
仕事を手伝う見返りに私の家の家事をお願いしたりしていますよね。
それは何故だと思いますか?」
向き直って窓ガラスに背をつけると伏し目がちに笑った。
事務椅子の背もたれに顎を乗せた真雪は、ノクティルカを黙って見つめる。
外から届く街の灯が眩しく、彼の表情を窺い知る事は出来なかった。
鮮やかな色の中で黒いシルエットが浮かび上がる。
言葉を選ぶ無言と、思案する無言。
声を出す事すらためらう静寂の中で見つめ合った。
「軽蔑されそうだから言わないつもりでしたが、それも難しいようですから。
レイヴンには後悔してもらいましょう」
「……え?」
「私に言わせた事を、ですよ」
ノクティルカの顔から苦笑が消え、真顔になる。
視線をせわしなく動かし、何度も言いかけては口を結ぶ姿は
言葉を選んでいるようだった。
額にかかる前髪を払うと軽く息をつく。
周囲の音が一切聞こえなくなった錯覚。
「私は毎日のように顔を合わせ、一緒に仕事をし、好きだという気持ちがあれば
それで満足なはずでした。立場も、自分の気持ちが相手を困らせてしまう事も
知っています。でも」
わずかな沈黙の後、静かに切り出す。
真雪は息を飲むような表情のままで固まり、耳を傾けていた。
何かを言おうとした唇が薄く開いた状態で静止する。
遠くで付けっ放しのテレビから軽快な音楽流れているのが聞こえた。
「実際は他人との仲を邪推しては勝手に嫉妬し、もっと側にいきたいと
願うような人間でした。自分自身が思うよりもずっと子供で、
気持ちを隠す事も出来ないようです」
自嘲気味に声が響く。
数メートルの距離が、それよりも遠く感じる。
「気がついたら貴方の事が好きになっていました。
こう言えば、先ほどの言葉の意味が分かりますか?」
沈黙はどの位の時間続いただろうか。
唖然としていた真雪は急に我に返ったような反応を見せた。
何度も唇が動くものの言葉は伴わず、そのまま顔を背ける。
赤紫色の瞳が落ち着きなく動き、背もたれに触れていた手が強く握られた。
「え、と……」
言葉を探すが、適当な言葉が見つからずに黙り込む。
俯いて床の一点を見つめたまま、髪を人差し指で掻く仕草。
椅子が軋む細い音だけが室内に等間隔で聞こえていた。
真雪はノクティルカの言葉が冗談ではない事をどこかで分かっていた。
そして、それを笑い飛ばす空気ではない事も。
気まずい空気が流れる。
鼓動で周囲の音が上手く聞き取れなかった。
何か言わなければと懸命に言葉を探すものの、自分が何を考えているのかすら
分からない。
ノクティルカの視線と言葉に、明らかに動揺している事に真雪自身が
一番戸惑っていた。
「すみません。やはり貴方を困らせてしまいました」
どことなく沈んだ声で言う。
その声は周囲の雑音で消えそうなほど小さかった。
二人は互いを見ようとせず、会話も途切れがちになる。
辺りに立ち込める重い空気。
漏れた溜息はどちらのものだったのだろうか。
「どうか、私の言った事は忘れて下さい」
その言葉を残し、真雪の視界の端から黒いシルエットが消えた。
靴音が遠ざかる気配と共にドアの閉じる音が妙に大きく響き渡る。
その拍子に冷たい空気が忍び込んでくるのが分かった。
再び室内が静かになる。
真雪は無機質なインテリアばかりの風景の中で、
ノクティルカが消えた方向を見つめていた。

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