home > 小説 > > 01:moonlit night

01:moonlit night

青い夜だった。
窓を遮るカーテンやスクリーンの類は一切なく、一面に窓が広がる。
そこから差し込む月明かりで、辺りが青く見えた。
弱々しいと思っていた月明かりで濃い影ができている。
星もない漆黒に小さな円が一つ浮かぶ。
まるで出口のようなそれが、この夜に違和感を与えている原因だった。
「先生、お腹いっぱいになった?」
月光を背景に、ソファに座る二人のシルエットが一つになる。
聞こえるのは微かな布が擦れ合う音と、小さな溜息。
いつもは気にも留めない空調の音が室内に響き渡っていた。
「まだだな。全然足らない」
「ったく、どんだけ底なしだよ」
毒づく声に笑い声が重なる。
唇が触れ合って体温が一つになり、溜息と笑う気配が溶けた。
軽く睨む真雪の頬をカルラの手が撫でる。
彼は不機嫌そうに眉を寄せてはいるものの抵抗はせず、されるがままだった。
何度かの短いキスの後、深く唇を重ねる。
唇を舐める感触に、真雪は押し殺した溜息を漏らした。
「しかし、レイヴン」
頬に触れていた手はくすぐるようにしながら耳、それから髪に移動する。
名を呼ばれ、伏せていた赤紫色の瞳がカルラを見た。
しなやかなストレートの髪と長い睫毛、それにくわえて華奢な体型が
真雪に中性的な印象を与える。
私立高校の制服を着た彼を、誰が人間ではないと信じるだろう。
そう、彼は『死神』なのだ。
 
201X年、東京。
一見平和に思えるこの街には、此岸(しがん)と言われる裏社会が存在していた。
人身売買や銃器・薬物等の闇取引、暗殺が横行し、
迷信とされてきた妖怪や怪異といった類の人外生物が蠢くもう一つの世界。
人外生物の中でも危険性の高い『イレギュラー』と呼ばれる生き物を処理する
退治屋・チェイサーや、人の生死を管理する死神など、
一般人が知り得ない生業の人間がいる。
此岸名(コードネーム)で互いを呼び合う彼等は、
夜になるとまるで獣のように動き出した。
 
「お前、仕事をサボってこんな事をしていていいのか」
「よく言うよ、あんたが『動けない』って電話してきたから来てやったのにさ。
腹減って死にそうな奴、無視するワケにはいかねえだろ」
鼻先が触れる距離で睨む。
どこか呆れ気味の視線を向けられて、カルラは苦く笑った。
「お人好しは損する事が多いな」
「ホントだよ。何が悲しくて仕事抜け出して、
アンタとこんな事しなきゃならないんだ。
言っとくけど、俺は別にそっちの趣味はねえからな」
「キスしながら言う台詞ではない気がするが」
「アンタが勘違いしてるみたいだから言ってんの。腹減ってんなら
女に電話すりゃいいだろ。なんでわざわざ俺なんかに連絡してくるワケ?」
それまで真雪の腰に手を回し、繰り返し口付けていたカルラの動きが止まる。
間近にある瞳を見つめながら考えているようだった。
そして、ややあって息をつくように口元に笑みを浮かべる。
「それはお前が美味いからだ。そこいらの女よりも美味い」
不意に、頬に触れていた手が真雪の手首を掴んだ。
身体を支えるようにソファについていた手を外され、真雪はバランスを崩しかける。
どういうつもりなのかとカルラを怪訝そうに見つめるものの、
彼は薄く笑っていたままだった。
「ちょ、待て! 何……」
言うが早いか、ソファに押し倒される真雪。
部屋に重い物が投げ出されたような音が響く。
カルラは真雪の両手首を片手で掴み、彼の頭上で押さえつけると
覆いかぶさる形になった。
ソファに膝をつき、焦りを滲ませながらも睨む顔を覗き込む。
「バカ、離せよ! する気はねえって言ってるだろ!
アンタがキスだけだっつーから……!」
「本当にそれだけで済むとでも? 前菜だけ食べて、
メインディッシュやデザートを我慢出来ると思ったか」
「やめろっつーの! 今すぐふざけた真似やめねえと、無理矢理でも止めるからな!」
「面白い、私とやり合うつもりとは」
噛み付く勢いで言葉を吐く真雪を、カルラは観察するように眺めていた。
身体をよじらせて手首の束縛から逃れようとするが、微動だにしない。
それどころか、込められる力が先ほどよりも強くなっている気さえした。
真雪が暴れる度にソファが小さく軋む音を立てる。
「もっとも今のお前は、私に傷をつける所か逃れる事すら出来ないだろうが」
「どういう意味だよ」
「軽く押さえているだけの私の手を、お前は外す事が出来ない。
酒を飲んだ訳でもないのに身体が火照る。口では威勢のいい事を言ってはいるが
身体が反応している」
カルラの手が真雪の太股から足を付け根をゆっくりとした所作で撫でた。
間近に迫る顔が言葉を紡ぐ度に頬に息が触れる。
真雪は肩で息をしながら視線だけを動かし、笑う顔を睨むので精一杯だった。
彼の指摘はことごとく言い得ている。
全身から力が抜けて動く事さえままならない上に、異様に身体が熱い。
触れるかどうかの感触であるにもかかわらず、身体が過敏に反応していた。
「何故だと思う?」
身体の奥が熱を帯びていく感覚に戸惑いながら唇を噛む。
足の付け根付近の硬くなった箇所を包んでいたカルラの手のひらが
真雪の身体の上を滑り、上へと登っていった。
真雪が視線を向けると、視界が陰で覆われる。
唇に触れる体温と柔らかさ、息苦しさに薄く開いた歯の隙間から舌が忍び込んだ。
舌同士が触れ、まさぐるように絡み合う。
「その答えは『私の体液』だ。夢魔である私の唾液などには催淫作用があるのだ。
たまに、お前のように反応しやすい体質の者がいるらしい」
「……きたねえぞ。あんた、騙したな」
「騙す? 人聞きの悪い事を言う。好き好んでこんな体質になった訳ではないさ。
それはお前だってそうだろう?」
カルラの長い指が真雪のネクタイを外した。
ネクタイが布地の上を滑る音が大きく響く。
いつもは車が行き交う音や街の喧騒が聞こえるが、今日は静まり返っていた。
動いているのは二人だけなのではないかと思いたくなるほど、全てが静止している。
漆黒と月光の青に支配された景色の中で、
遠くのビルの赤い光が点滅しているのが見えた。
「さて、いつまで威勢のいい口を叩けるかな?」
「やめ……離せって!」
「そんな顔で言っても逆効果だぞ、レイヴン。顔には『やってくれ』と書いてある」
カルラの真紅の髪が滑り落ち、二人の顔を覆う。
依然として手は拘束されたままで、真雪は身体をよじらせて離れようとするが
カルラはびくともしなかった。
何事かを言いかけた口を塞ぐのはカルラの押し付けるような口付け。
真雪の唇を舌がなぞり、軽く吸いながら微かな音を立ててしゃぶる。
次第に溜息は熱をはらみ、真雪の肩が荒い呼吸で上下に動いていた。
カルラの指が首筋をなぞりながら胸元へと降りていく。
その感触に真雪が苦しげに目を細めた。
まっすぐに見つめる視線から逃れるようと紅潮した顔をそむける。
「マジでやめろよ……」
切れた息の中で呟くように言った。
だが、カルラはそ知らぬ顔で真雪の首元に顔を埋める。
首に唇を当てながら、手は彼のワイシャツに伸びた。
ボタンを外してシャツを捲り上げると肌があらわになる。
肌の上に降りる淡い月光。
それまでくすぐるように動いていたカルラの指先が胸の突起で止まり、
ゆっくりとした動作で幾度も弧を描いた。
大きく一つ震えた反応と、のけぞる様子にカルラが口の端を上げる。
「……っ!」
「ずいぶんと敏感だな。私の唾液のせいか、それとも元からなのか」
突起を軽くつまみ、人差し指と親指を擦り合わせる動作。
真雪は痛みを堪えるような表情を浮かべながら唇を噛んでいた。
「胸をいじられるのは好きか?」
「す、きじゃ……ん……っ!」
「その割には、ずいぶん感じているようだが」
「ふ、ざけんな」
睨み付けても効果はなく、それどころか身体同士は更に密着する。
腕を振りほどこうにも自由は利かず、蹴ろうとするが足の間に
カルラの足が割り込んでいてそれも出来なかった。
顔が再度近付いたと思うと、カルラの唇が貪るように口付ける。
侵入する舌の感触に真雪は顔をしかめるものの、抗う事はできなかった。
指が胸の突起をつまむ度に下半身に痺れに似た感覚が走る。
息が切れ、無意識のうちに言葉にならない声が漏れていた。
熱を帯びた息遣いとソファの革が擦れる音が辺りに響き渡る。
青い光で満たされた室内の中で一つになったシルエットが動いていた。
「しかし、お前がこんな風にされていると知ったら
アイツはどんな反応をするのだろうな」
前触れなく唇が離れ、半ば朦朧としている状態の真雪を眺めていたカルラが
独りごちた。
頬を撫でる手。
整った顔立ちに楽しげな色が浮かぶ。
「嫉妬するか、ショックを受けるか。どちらにしても面白い事になりそうだが」
カルラは言葉を紡ぎながら真雪の腰に触れ、シャツの下に手をもぐりこませた。
青白い光を纏うシャツの中で手が蠢くのが見える。
胸の突起に行き当たると、くすぐるように指先が動いた。
「ん、アイツ……って?」
「さあ?」
「そこまで言っといて隠すのはナシだろ」
「私が言う事ではないという話だ。それ以前にバラしたら恐ろしい事になる」
身体を支配する感覚に眉を寄せながら、息切れの中で尋ねる。
だが、返ってくるのはかわす言葉と意味ありげな笑みだけだった。
真雪は視線を虚空に彷徨わせて思案してみるが、答えには辿り着けずに首を傾げた。
小さく唸る。
「ふうん? アンタが怖がる人間、ね」
「見当がついただろう?」
「いや、まったく」
「まあ、これ以上は秘密だな。対価を払ってくれれば別だが」
満月が浮かぶ漆黒の空には雲ひとつなく、さえざえと晴れ渡っていた。
風が強くなってきたらしく窓を叩く気配がある。
室内には濃い影が伸びていた。
「お喋りはここまでだ。夜は長いぞ、レイヴン」
「何言ってんだよ。これ以上、あんたに付き合ってられるか!」
真雪の両手を押さえていた手に力がこもり、軋む感覚に顔をわずかに歪めた。
カルラは間近から顔を覗き込んで楽しげに口の端を上げる。
強い視線を向けられても表情を崩す事はなかった。
空いた手は腰に触れ、撫でながら上へと移動すると
シャツをはだけさせて胸元を露出させる。
「何して……やめろって! はな……っ」
互いの息がかかる程近くにあった顔が離れ、枷となっていたカルラの手が離れる。
真雪の怪訝な様子は、カルラが胸に顔を寄せた時点で拒絶に変わった。
あらわになった肌に熱を帯びた息が触れる。
両肩を掴んで押し返そうとするが、力が入らずカルラを退ける事は出来ない。
暴れれば暴れるほど身体を押し付けられ、自由がなくなっていった。
「マジでやめ……っ! ん!」
胸に唇をあて、突起を舌先で突付かれた真雪は押し殺した声を上げる。
触れた瞬間、身体が大きく震えた。
肩を揺らして笑いながら、突起を口に含んだまま舌を動かすカルラ。
真雪は唇を噛んだまま顔をそらしている。
眩しそうに目を細めているのは月光の眩しさのせいか、それとも。
不意に。
どこからか、けたたましい電子音が静寂を破った。
警告音のように響くそれは携帯電話の着信音であるらしい。
真雪の動きが止まり、自身が着ているジャケットに視線を向ける。
だが、カルラは行為をやめようとはしなかった。
ついばむように突起をしゃぶり、舌で転がす。
その度に真雪は身体をのけぞらせた。
「せ、先生。電話……」
「誰からの電話か知らんが、この状態で出るつもりか?」
「ん、く……っ! や……」
「相手に喘ぎ声を聞かせる事になるぞ」
カルラは真雪を見つめながら笑いを含んだ声で言った。
いまだ鳴り続ける着信音が部屋中に響き渡る。
その音の狭間で聞こえる苦しげな呼吸と、堪えきれずに漏れた言葉にならない声。
真雪はカルラの肩を押し返そうとしながらも、
身体に押し寄せる感覚に身を委ねつつあった。
 
『今、どちらにいらっしゃるんですか?』
電話が繋がった途端、真っ先に聞こえたのは明らかに不機嫌そうな
ノクティルカの声だった。
真雪は大きく溜息をつくと、空を仰ぐ。
「んー、エリュシオンの前。さっきまで先生の事務所にいたんだわ。
悪かったな、電話に出られなくて」
『どこにいようと勝手ですが、電話だけは繋がるようにして欲しいと
言っているでしょう。仕事に支障を出さないで下さい。
貴方とパートナーを組んでいる私にも影響があるんですから』
「悪かったって。こっちだって出たくても出られねえ状況だったんだよ」
目の前の商業施設の入り口に顔を向けながら顔をしかめた。
夜の十時を回っているというのに五条で一番の繁華街は賑やかで、
昼間よりも人通りは多く感じる。
眩しい位の外灯や店舗のネオンは夜を忘れさせた。
漆黒の空さえなければ日中であるようにさえ思える。
行き交うどの顔も楽しげで、あちこちで笑い声が生まれていた。
その中で、ビルの玄関付近のガラスにもたれかかる真雪だけは疲れた表情を浮かべている。
「で? 用件は何よ」
『ギルドより緊急討伐の依頼がありました。ワーズワースよりご指名ですよ』
「めんどくせえ。断ってよかったのに」
『他に頼める人間がいないと泣きつかれてしまったんです。
恩を売っておいて損はないでしょう』
傾げた首と肩の間に携帯電話を挟んだ真雪はネクタイを締め直しながら
大袈裟に溜息をついた。
電話越しに苦笑が聞こえる。
「どうせ厄介な案件なんだろ、そんな風に言うって事は。
めんどくせえネタばっかり押し付けてきやがって、人をなんだと思ってるのかね」
『腐らないで下さい、レイヴン。仕事ですよ』
「分かってるけどさ」
夜になって気温が下がったらしく、通り抜けた風は冷気を含んでいた。
夏の名残はどこにもなく、等間隔に植えられている街路樹の葉は
赤く染まりつつある。
『ただ、その依頼が変わっているんです。確かに、こういう案件なら
他に頼めないというのも分かる気はしますが』
「なんだそれ。場所はどこよ?」
『久光東公園です。レイヴンが今いる地点から徒歩で五分ほどの位置になりますか』
「そうだな。横断歩道渡ってすぐの公園だろ?」
電話口のノクティルカの声に困惑が滲んだ。
時折、書類をめくる音が重なる。
『はい。それで、ターゲットに関してなのですが』
「うん」
『クラス、特徴共に不明。出現ポイント以外は何も分からない状態です』
「はあ!?」
ガラスから背をはがし、歩き始めた真雪が思わず大きな声を上げた。
反射的に電話に視線を投げる。
周囲は真雪の頓狂な声に怪訝そうな一瞥を向けるが、
それもすぐに無関心へと変わった。
「何だよ、それ。本当にイレギュラーなのか?」
信号待ちの人垣に紛れ、目の前を行き交う車の流れを目で追いながら
眉間に皺を寄せる。
往来の多い国道である上に頭上を首都高速道路が走っているせいもあり、
声が騒音に飲まれかけた。思わず声が大きくなる。
『ギルドによると、そのようですが。何でも、声が聞こえるので
どうにかして欲しいという要望が出たそうで』
「なんかツッコミどころが多くて、どこから突っ込んでいいか分からねえな。
俺らは街のトラブル解決係じゃねえっつーんだよ」
『まあ、とりあえず確認して頂けませんか』
「了解。今、向かってる」
信号が青になると同時に、静止していた人の流れが一気に動く。
携帯電話を耳にあてたままで真雪も歩き出した。
横断歩道を渡ると光が溢れた繁華街の景色が一変し、
ビルばかりが立ち並ぶビジネス街に変わる。
人もまばらになり、対岸の騒音が嘘のように静まり返っていた。
等間隔に並ぶ外灯がどことなく頼りなげで薄暗く感じる。
『ところで、レイヴン』
「ん?」
『なんだかお疲れのようですが、大丈夫ですか?』
真雪の動きが止まった。
何かを言いかけて口を結び、思案するように黙り込む。
落ち着きなく動く瞳は言葉を探していた。
響く靴音。
「……何で?」
『いえ、何となくそんな風に感じたものですから』
「大丈夫、単にダルいだけだ。最近また寝れねえ上に、この仕事だからな」
平静を装って、苦笑に似た笑みを浮かべる。
この言葉は間違ってはいないものの、疲れの直接的な原因ではない。
もっとも、ノクティルカに本当の事が言えるはずがないが
――真雪は心の中で呟いた。
視線は電信柱の住所表示と周囲に向けられている。
特別変わった気配がある訳でも、人外生物の匂いがする訳でもない。
注意深く観察していた真雪の足が止まる。
目の前には公園名がかろうじて読める古ぼけた看板と、鬱蒼とした緑。
一見して、誰がここを公園だと思うだろう。まるで雑木林だった。
周囲に比べて、この公園は更に暗い印象だ。
視界の端で電灯が点滅しているのが見える。
「ノクティルカ」
『はい』
「一応公園に着いたけど、ここで間違いねえんだよな?」
『ええ。ギルドから指定された場所は久光東公園となっています』
真雪が視線で看板の文字をなぞると、身体をねじって辺りを見渡した。
「イレギュラー、いないんじゃねえの? それらしい気配が全くないんだけど」
『匂いもしませんか?』
「全然。姿が見えなくて匂いがするなら隠れてるとか
姿を消してるんだろうって思うけど、匂いも気配もねえからなぁ」
『移動したんですかね』
真雪は睨むように目を細めて前方を見据えた。
口を手で覆い、息を殺す。
木々が風に揺れるが通り過ぎると濃い静寂に包まれた。
車が通る音はおろか、靴音一つ聞こえない。
ボタンを留めていないジャケットが風ではためく。
「……いや」
数秒の沈黙の後、真雪が呟いた。
何かを見つけたのか、闇の一点を見つめている。
『気配を感じましたか』
「ああ、何かがいるみてえだ。なあ、ギルドは『声が聞こえる』って
言ってたんだよな?」

『はい』
「じゃあ、コイツの事かもな。風の音でよく聞き取れねえけど
威嚇してるような声が聞こえるから」
真雪の顔から表情が消える。
髪をかきあげて軽く息をつくと、携帯電話を一瞥した。
「ノクティルカ、一旦電話切るぞ。ちょっと様子見てくる」
『了解です。どうぞお気をつけて』
「ああ」
真雪は携帯電話をジャケットのポケットにしまうと、空を仰ぐ。
頭上には満月が光を放っていた。
やがて聞こえた靴音。
シルエットは闇と同化した木々の中へと消える。
 公園に一歩足を踏み入れると、そこは別世界だった。
縁を囲む緑は大きく茂って外の景色を隠し、音の侵入すら許さない。
数百メートル離れた位置に繁華街がある事を忘れてしまいそうなほど静かで、
聞こえるのは葉ずれの音のみ。
外灯は隅に設置されているものの薄暗く、あまり役に立っていないようだった。
「確かに、人外が好みそうな場所だな」
遊具もなく、傾きかけたベンチと錆びた柵のみが取り残されている。
真雪は苦笑気味に独白を漏らすと周囲に視線を巡らせた。
警戒するほど全ての物が動きそうな錯覚に陥る。
他に気配はなく、ここに存在しているのは真雪のみであるように感じた。
耳を澄ませても木々のざわめきが幾重にも重なった音しか聞こえない。
真雪が溜息混じりに携帯電話を取り出そうとした時だった。
動きが止まる。
息を殺して瞳だけで周囲を注意深く観察した。
離れた位置から声が聞こえる。風の音に混じって、
獣の唸り声が微かに耳に届いていた。
唇を噛み、音の方向を探る。
距離は数十メートル、方向は――。
それまでせわしなく動いていた視線が一点で止まった。
公園の隅に忘れられたように存在する外灯の下。
注意深く気配を殺しながら真雪が近付く。
地面には月光が木々の影を作り、風が吹く度にその影も
スローモーションで揺れていた。
次第に、くぐもった声が大きくなっていくのが分かる。
真雪が詠唱すると、それに呼応して右手に青白い光が宿っていく。
砂利を踏む音が辺りに響き渡った。
目を細めて凝らしてみるが、闇と同化していて声の主が何であるか判別できない。
それは背の低い植え込みの中にいるのだろうか。
声まであと数メートルの位置。足が止まった、その時。
「……あ?」
真雪が間の抜けた声を上げた。
前屈みの姿勢で眉間に皺を寄せ、植え込みの奥を凝視している。
「いや、え?」
依然として前方から威嚇しているような唸り声が聞こえる。
しかし、学生服姿の死神は唖然とした表情を浮かべてしゃがみ込んだ。
視線は前方に釘付けのままで。
「あー、もしもし。ノクティルカ?」
『お疲れ様です。イレギュラーの討伐は終わりましたか?』
「いや、終わってない。終わってねえんだけどさ」
『という事はイレギュラーはいなかった、と?』
携帯電話を耳にあて、髪をかきあげたポーズのままで固まる。
俯き、微動だにしないその格好はうなだれているようにも見えた。
「んー、声の主はいたんだ。けど、それがイレギュラーかどうかは分からねえ」
『分かるように説明して下さい。どういう事です?』
「今、俺の前には犬っぽい何かのケツが見えてて」
真雪の怪訝そうな視線の先にあったのは、植え込みの根元付近にある
小型犬に似た獣の後姿。
ちょうど生後一ヶ月ほどの柴犬のように見えるが、
身体を覆う臭気は人外生物のそれだ。
頭を低くした状態で植え込みに顔を突っ込む形になっており、
くぐもった声で唸り続けている。
植木の影が落ちて上半身や顔は判別できないものの、
臀部だけが外灯に照らされてはみ出て見えた。
「何かにハマっちまって抜けないらしくてさ。ずっと唸りながらもがいている」
『……はい?』
「何やってんだ、お前。マヌケにも程があるぞ」
真雪は獣の臀部に脱力した声を投げる。
確かに獣は何かに引っ掛かってしまっている様子だった。
動く度に植木が不自然に揺れ、その一帯だけがざわめいている。
踏ん張った後ろ足がもどかしそうに動くものの、
頭や上半身が出てくる気配はなかった。
「で。どうするよ、ノクティルカ」
『そうですね。一応ギルドよりイレギュラー認定を受けていますし、
処理するのが妥当かと思いますが』
「処理? ……お前、本気で言ってるの?」
獣に伸ばしかけた手を途中で静止させ、思わず携帯電話を睨んだ。
淡々と無感情に言葉を放つノクティルカとは裏腹に、
真雪は怒気をはらんだ声で尋ねる。
数秒の空白。
耳元で風が唸りながら通り過ぎていった。
「だってコイツ、まだ小さいぞ。子犬くらいのサイズのヤツを殺すなんて、
よくそんな事が言えるな」
『イレギュラーにサイズは関係ありません。今だって貴方を
油断させようとしているのかもしれませんし、助けた途端に
牙を剥く可能性だってあるでしょう』
「顔がハマって動けなくなってるマヌケにそんな真似が出来るはずねえだろ」
『何故そう言い切れるんです? たとえ子供でも、
どんなに危険性がないように見えてもイレギュラーはイレギュラーですよ。
小さな可能性でも危険は排除するべきです』
ノクティルカは電話の向こうで険しい表情を浮かべているのだろう。
いつもと同じ口調が無慈悲に響く。
どちらからともなく溜息が漏れ、黙りがちになった。
真雪は地面の一点に視線を落としたままで。
『今は危険な存在でなくても、いずれ脅威となる可能性もあります』
「どうなるかなんてまだ分からねえじゃん。
人外がみんな危害加えるってワケじゃねえよ」
視界の端で樹木が踊っているのが見える。
低く威嚇する声を聞きながら真雪が首の後ろに手を当てた。
不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
無彩色の景色の中で取り残されたように存在するシルエットは微動だにしなかった。
「なあ、ノクティルカ」
重い空気が辺りに立ち込めていた。
ややあって、真雪は言いよどみながら小さな声で切り出す。
「全部責任取るから、コイツ見逃してやってくれないかな。
ギルドには俺から説明して、イレギュラー認定取り消してもらう。
このチビ、頭が抜けなくて声出してたのが原因で
イレギュラー扱いされちまっただけだと思うんだ」
俯いた顔を前髪が覆い、表情を読み取る事はできない。
持ち上がった視線が獣を見つめた。
近付いてきたサイレンが尾を引きながら遠くへと消えていく。
そして、再び訪れる静寂。
「正直言うと、コイツを殺すなんて俺には出来ねえ。
ノクティルカの言うとおり、助けた途端に攻撃してくるかもしれないし、
いずれ危険な存在になるかもしれない。でも、人外全部が悪い奴だと思いたくない」
『貴方は甘すぎる』
呟く、絞り出した言葉。
「分かってるよ、そんな事。分かってるけど」
『……まあ、そこが良い所でもあるのですが』
独白と共に耳元で苦く笑う気配がある。
怪訝そうな表情の真雪が顔を上げた。
言葉の意味を捉え損ねて、大きく目を瞬かせる。
『レイヴン、ギルドにイレギュラー認定取り消しを交渉してから帰還して下さい。
クラスも特徴も不明な案件でしたから、取り消しは容易いでしょう』
「へ?」
『どうしました? この指示に何か問題でも?』
ノクティルカの笑いを含んだ声で問う。
それまでキョトンとしていた真雪が、一拍置いて息を漏らすように笑った。
立ち上がり、ズボンを手で軽く払う仕草。
「ありがと」
独り言のようなその言葉は、電話の向こうの相手に伝わったのだろうか。
軽く息をつくと髪をかき上げる。
背筋をそらして、伸びをした拍子に葉越しに見えた月。
それは何だか笑っているように見えた。
「レイヴン了解。引き続き任務を遂行する」
『はい。ちゃんと人外を助けてからギルドに向かって下さいね』
「あ」
『……もしかして忘れてました?』

新しい記事
古い記事

return to page top